安中の富岡製糸場が世界遺産になった。明治の製糸技術がそのまま残されている、というのがその理由だった。工場は煉瓦づくりの明治そのままの概観が眼を楽しませてくれる。
倉敷にも倉敷アイビー・スクェアとして、煉瓦づくりの明治が、そのままホテルや美術館として残されている。クラボウ創業者一族の文化的見識については前にも記したが、会社の営繕部に優れた人材を雇用していた。営繕といっても今どきなかなか通じないが、かいつまんで言えば工場や事務所の日常的修理部門にすぎない。ドアの建付けが悪いとか、雨漏りしたとか、電気の不具合とか、必要だがつまらない仕事をメンテナンスする部署だ。その営繕部にすぐれた建築家を据えたというのが、なんとも凄い。
その人の名前は「浦辺鎮太郎」、のちに自身の建築事務所をもったが、日本の和風建築家として歴史に残る仕事をした。
倉敷川沿いに歩いていると、芹沢圭介による文字行燈が眼に入ってくる。「旅館くらしき」とある。この「旅館くらしき」こそこの町に「泊まりの文化」を創り出したシンボル・ポイントなのだ。
ある時、この旅館に浦辺鎮太郎がつかつかと入ってきた。なにごとかと女将が出てみると彼は「この家の外塀が少しばかり痛んでいます。ぜひ私どもに直させていただきたい。費用は手前どもで負担いたします。」翌日にはオーナーの大原聡一郎を連れてお礼に来たと伝えられる。クラボーの工場のメンテどころか、街の佇まいにまで気をくばり、お金を使っていたということに驚く。今どきの貧しい企業家に大原家の爪の垢でも煎じて飲ませたい。
浜田庄司も棟方志功も、みなこの旅館くらしきを愛し、創作の想を練ったと言われる。日本美を創りだした天才たちにとって日本の素晴らしさを凝縮したほんものの環境、ここにある泊まりの文化が、彼らの芸術を触発したことは想像に難くない。
旅館くらしきに泊まることはできなかったが、せめて志向が愛したその部屋で食事をして帰ってきた。
泊りの文化を創ったくらしき
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プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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