沈没した野村萬斎

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 オリンピックの魅力も色褪せ、いまやオリンピックは開催しなくていいという人が、過半数をこえたといわれている。
 どんなに優れたアスリートも、コロナの前ではひとたまりもなく、肉体の脆さをまざまざと見せつけられ、スポーツそのものの威信も地に堕ちたというべきか。
 金メダルのメッキもはげかかっている。
 メダルを土産に芸能人になりたかったスポーツマンにとっては、悪夢の一年、いやひょっとすると悪夢の二年になるかもしれない。
 開閉会式の華やかな舞台に登場する予定だった狂言師の野村萬斎は早くも沈没してしまった。
 三間四方の能舞台しかしらない狂言師に、八万人の国立競技場の演出をまかせた方に責任はあるが、案の定えんえんと続いたのは小田原評定で、僅か7人のメンバーすらまとまらなかったというのが現実のようだ。
 あらゆるテクニックを動員して、人間賛歌をつくりだす構想力、哲学とスペクタクルの創造点に野村萬斎は立てなかった。
 集められたスタッフも小粒なクリエーターが多く、テーマの縛りがワクワクドキドキ感ではなんとも恥ずかしい。
 二の変わりのディレクターが電通の元局長さんとは、これでスポンサー対策だけは万全ですという事なのだろう。
 今この国のスペクタル・シーンはあらかたデジタルなメカニックに支配されている。映像を始め照明も音響も花火もみな技術の足元にひざまずいている。 
 そのなかでジャニーズやら、サカミチの少女やら、手垢のついたタレントが踊っている。いくらそんなものをみせられても大衆は感動しない。、
 コロナより強い肉体が集まって集団行動でもしてくれたら拍手喝采である。


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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