残る桜も散るさくら

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 咲く桜あり、散る桜あり…今年の桜便りは乱れている。
 四季の移り変わりと共に花をめでる日本人のライフスタイルが、誰かの呪いで壊されているとしか考えようがない。むかしの花は漢字で咲いた。それがいつしか平仮名で咲くようになった。そして今は花はみな片仮名で咲く。薔薇は咲かずバラが咲き、桜は咲かずサクラが咲く。となれば呪いの主は花に決まってる。
 芭蕉によって詠われた…「さまざまの事 想い出す桜かな」…若き日の脱藩の罪を責めることなく、花見の宴に招いてくれた主家への感謝と生への追憶が、短い句に溢れている。
 伊賀上野の紅梅屋には「さまざま桜」という名の桜の干菓子がある。ごまさくら、青海苔さくら、さくらさくら、と桜の花びらをかたどった粋で素朴な菓子、春の茶席で話題の主になる。
 「これはこれはとばかり花の吉野山」吉野郡吉野村大字吉野字吉野旅館吉野の吉野乃間で花見をするという
馬鹿げた遊びにうつつを抜かしたこともあった。散り始めの下千本、満開の中千本、咲き始めの上千本を一目に、吉野の葛きりと共にニホンの春を満喫した。
 西行はその吉野の最後の桜が咲く山に庵を営んだ。「願わくば花の下にて春死なむ その如月の望月の頃」
 吉野の桜は色鮮やかな山桜だったが、江戸染井村の植木職が簡単に手っ取り早く、桜の木の商いをしようとヒガンザクラとオオシマザクラを交配して作ったのがソメイヨシノ、瞬く間に色の薄いソメイヨシノが日本中にはびこってしまった。しっかりとした桜色は寺社に残るぐらいで、風雨をくぐり抜けて咲く山桜や枝垂桜の美しさは、稀に見ることしか出来なくなってしまった。町の人はいつの時代にも田舎の自然を壊す。
 「散る桜 残る桜も 散る桜」良寛の辞世に、儚い人生が重なる。


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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