いま東宮に起こっていることは、皇室に於いて1000年来無かったことだと言われている。
東宮の女官たちが、次々と辞めている。まず長女愛子さまの養育専任女官として、学習院幼稚園の園長からヘッドハンティングされて東宮にきた小山久子さんが、暮れも押し詰まった12月27日に退職した。年が明け1月17日には、女官長の木幡清子さんが辞めた。数年前にはやはり女官長の高木みどりさんが辞めている。一昨年には田園調布雙葉の三年先輩にあたる福迫美樹子さんも乞われて愛子さまの養育係になったがさっさと辞めてしまった。皆さんそれぞれに立派な経歴をもち、だれからも人格者と目されていた人々だ。東宮女官といえば決して軽いポジションではなく、ある意味女性にとってもっとも名誉ある仕事の筈なのだが、そうした女官たちが後任も決まらない状態であるにもかわらず、さっさと辞めている。
皇太子様の独身時代から交流のあった末綱東宮侍従長も、僅か3年で妃殿下との折り合い不良で辞めたし、東宮予算をとりしきる事務主管総括職の男性も3か月で任を解かれ本庁の主計課にもどってしまった。夏須崎の御用邸に滞在中の妃殿下の経費支出について衝突したといわれている。物言えば唇寒しで、東宮職全体が機能不全に落ちいり、いまやシラケきっているとさえ伝えられる。
妃殿下と女官の間の信頼関係はくずれ、妃殿下は二人の妹さんや実家とホットラインで相談をして行動を決められているという。東宮にお仕えしたつもりが小和田家に仕えたようになってしまつたのではやりきれないという想いが女官のあいだに漂って次々の退職を誘発しているという。誰の眼からも異常に映る愛子さま付添登校にも女官や養育係が進言しても全く聞く耳もたずというのが真相のようだ。お世話係の女官を遠ざけ、皇太子とふたり籠もっての日々では、ますます強度の適応障害になってしまうだろう。いっこくも早く「苦言」という良薬を飲まれなければ、袋小路に入られ、孤立無援の取り返しのつかない状況に落ち込まれることだろう。
次々と女官が逃げ出す!
コメント
プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
コメントを残す