橋本聖子と山田真貴子

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 橋本聖子がもてはやされ、山田真貴子が消えた。
 こんなバカげたことが横行するのが、この国の政界だとすると絶望的な気分になる。
 橋本聖子はかってオリンピックを私物化し、7年に渡ってその席を占有し後輩たちの芽を摘んできた。スケート、自転車の競技世界で彼女が座り続けたために、オリンピックを諦め選手生活を断念した後輩たちが沢山いた。彼女が出現するまえは、オリンピックという頂点にたった選手はそこで第一線をひき、後進の育成にまわるという不文律があった。それを無視し自己の欲望のため何年でも出場選手の席を私物化したのが橋本聖子であった。
 その橋本をレジェンドとか美名をつけてもてはやすのが無責任なメディアである。
 選手団の団長になるや、選手にハグをせまり、キスを強要する欲望まるだし性欲過多の団長で、みなが迷惑した。
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 山田真貴子は早稲田法学部で学んだのち旧郵政省にはいった。早くからコミュニケーション能力が高く気配りのできる官僚として注目された。 総務省に改変されても郵政出身というハンデや私大出という弱みを克服して総務審議官というナンバー2にのぼりつめた。
 その時、たまたまめぐり合わせたのが、菅首相のチャライ息子だ。BS・CS・地上波とデンパ獲得競争の渦にまきこまれた。電波事業は役所の許認可事業であるためどこのテレビ局も省庁担当役員がいて、役人との接触に明け暮れた。まして東北新社のごとく下請け会社からスタートした小企業は必至の体制で免許獲得にうごいた。
 時の内閣の枢要な位置にいる大臣の倅からの招きとあれば、断れる官僚はまずいない。7万円の食事など、飲み物、サービスが付けば当然の値段でもある。
 野党の福島、辻元、蓮舫など女性議員は、鬼の首をとったように責め立て歓声をあげるが、よりよいジェンダー社会をつくるためには、とんでもない損失だということに眼がいかない。メディアも同罪だ。
 橋本聖子がオリンピック会長になり、山田真貴子広報官が葬られて、この国のジェンダー文化はますます悪くなる。


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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