松岡修造の迷惑な熱さ

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松岡修造の迷惑な暑さ
 松岡修造の熱さにスポーツ界が困っている。
 とくに若いアスリート達にとってこれほど当惑する存在はない。
 選手の心境や体調には全く関係なく、マイペース、マイテンションで応援し質問してくる。個人なら断ることもできるが、テレビカメラを引き連れてくるのでは、断ることも出来ず若い選手たちはなるべく修造に近寄らないようにしている。
 GPシリーズで不調だった羽生結弦に対して、「壁にぶち当たってそれを乗り越えるのが大好きなんだから、明日は大丈夫、頑張って!!」と畳み掛けたが、その時彼は38度の熱と咳で最悪のコンディションだったと伝えられる。
 テニスの錦織圭選手すら、いつまでも育て親顔の修造のインタビューをいちばん嫌っていると言われているし、フィギュアスケートの花形達も修造の暑すぎるエールに苦笑いしているという。
 松岡修造は何故こんなに状況がよめないのか。
 偉大な父をもつた二代目ボンの松岡功と、宝塚男役の千波静を母に生まれた血の宿命もあるかもしれないが、幼稚舎で劣等生、勉強せずにテニスのために柳川高校へ転校、結局人間としてみがく時間がまったく無いまま、アメリカでの選手生活を過ごした彼の過去に原因があるような気がする。
 自分の思いと情熱だけで生きてきた彼にはインタビューの折でも、深いところでの人間洞察力がまったく無い。ファブリーズからボンカレー、越後の置き薬となんでも熱いテンションでコマーシャルをやれる神経は、ショップ・チャンネルで声を上げるセールスマンと変わらない。
 あなたの毎日を全力応援! まいにち修造! 日めくり修造! ほめくり修造! は同族の織田信成や古館伊知郎やテレビには向いているかもしれないが、すこしでも思慮のあるアスリートにとっては、迷惑至極の応援なのだ。


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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