松也と若手6人の浅草歌舞伎

by

in

松也と若手6人の浅草歌舞伎.jpg
 新春浅草歌舞伎千秋楽をみた。テレビに出まくって宣伝に努めれば、客が入ることを覚えた尾上松也を中心に、7人の若衆による顔見世が涙ぐましい。
 福助の長男の中村児太郎、三津五郎の子供の坂東己之助、歌六の長男中村米吉、又五郎の長男歌昇、次男種之助、錦之助の長男中村隼人、そして松也の座組は、年長者だからという理由だけでは、かたずけられない重いメンバーだ。
 芸の優劣より家柄によって芝居の役どころも決まってくる歌舞伎に於いて、絶対的な価値をもつのは家柄だが、この7人衆のなかでは、松也の出目がもっとも軽い。チラシを見れば、勧進元の松竹の苦労ありあり、如何にそれぞれの家に気をつかってチラシを作っているかが良く判る。可哀そうなのは松也である。
 父松助は先代松緑のもとにあって、軽妙洒脱な芝居をしていたが、病をえて早くに亡くなった。決して誉高い名門の出という訳ではない。
 松也はAKB第一期前田敦子の恋人として話題になったが、メディアの下品な興味の対象が、スターに化けた典型的な例でもある。
 海老蔵の場合には江戸歌舞伎の家元に生まれ約束された地位だったが、近年の情報社会でスキャンダルを逆手にとって人気者に駆け上がったいい例が松也なのだ。
 「色にふけったばっかりに大事の場所に居り合わさず…」仮名手本忠臣蔵六段目の早野勘平の悲劇は前敦にかぶるが、菊五郎さんの指導よろしく音羽屋型で演じられた勘平腹切りの場は、なかなかの熱演だった。
七人衆のなかでは、中村米吉のさわやかなお色気が出色で、いずれブームを巻き起こし若手女形のトップを走りそうな予感がした。


コメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です


プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


カテゴリー


月別アーカイブ