東京大空襲から敗戦のあの日まで

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 3月10日東京大空襲の翌日から8月15日の敗戦の翌日まで、杜の都仙台に疎開していた。
 東京大空襲のその夜から、水道は出なくなり、ガスも止まって、中学二年生の男の子の一人暮らしが不可能になったからだ。東京が焼け野原になったその翌日、数冊の教科書と辞書を背に常磐線に乗って仙台をめざした。
 仙台の南郊、名取川の川岸に棲む親戚を頼った。その親戚は私鉄をひき、私学をつくった祖父の血をついだ教育者の家だつた。
 仙台駅から西へまっすぐたどり、広瀬川をわたったところに転校先の学校はあった。普段は汽車に乗って仙台までいき、駅から学校まであるいた。途中の公園には、ずんだ餅の有名な茶屋があった。たまには遠回りをして伊達政宗の銅像を仰ぎ、戦国時代に想いを馳せつつ霊廟を拝んで帰ることもあった。
 汽車も不通になることがたびたびあり、そんなときは歩いて通った。片道2時間往復4時間はかかった。空襲のサイレンを聞きながら、長町にあった仙台駄菓子の店によって駄菓子のあれこれを選ぶのが、なによりの楽しみだった。 名取川の土手でひと休みしながら、駄菓子のふくろを開いた。
 たまの休みには、陸前高田や松島や閖上(ユリアゲ)の町に買い出しにつきあわされた。魚の干物や魚肉ソーセージをリュックにいっぱい詰めて帰ってきた。
 間もなく仙台も焼け野原になり、経験したことのなかった焼跡整理に狩りだされ、人間や軍馬の死体と向かい合った中学2年生の夏だった。
 3.11の東北大震災の日には、どうしても仙台大空襲を思い出す。朴訥な東北人のうえに災害は容赦なくやってくる。
 三陸の大津波も記憶に記憶が重なって神の残酷さを想う。
 その日いっせいに現地にとび、「頑張ってください」と口先がいうニュースショウの司会者たちの軽さに吐気がする。


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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