朝日新聞の終りの始まりがやってきた。
半世紀にわたる反日報道がたたり、かってのクオリティ・ペーパーとしての朝日の看板が地に堕ちたというべきか。
大学時代朝日新聞の存在は圧倒的だった。入社試験、公務員試験の問題を解くには、朝日を読んでいなければ出来ないと教えられ、社会へ出るためのルーティーンとして朝日の活字をむさぼり読んだものだ。
(Q)というサインで切れ味のいい映画評を書かれていた津村秀夫さん、墨線鮮やかな舞台装置を書いてくださった漫画家の清水崑さん、演出作品の劇評でいろいろとお世話になった本地盈輝さん、みな朝日新聞紙上に健筆をふるわれた尊敬する先輩だった。
開局以来、10年に渡ってドラマ、音楽、あるいはモーニング・ショーなどプロデューサー・ディレクターとてTVの現場を経験したのも今日の「テレビ朝日」である。朝日グループの一員として碌をはんでいた筆者にとっても、朝日の失墜は悲しいことだ。
靖国参拝、韓国従軍慰安婦、南京大虐殺、と次々に日本を貶めてきた意図的な虚偽報道、さらに安倍内閣にたいするモリトモ、桜を見る会への報道ぶりが、国民のあいだの朝日信仰をすっかり崩壊させたともいえよう。
170人もの大弁護団をバックに、桜井よしこさんを訴えた、従軍慰安婦の火付け役 元朝日新聞記者植村隆は、一審、二審についで最高裁でも見事に敗訴した。 最高裁において自らの韓国人従軍慰安婦の記事が嘘だったと、最終判定されたのだ。挺身隊と従軍慰安婦をごちゃまぜにした朝日新聞の記事そのものが、捏造されたものだと判決された。
にもかかわらず植村隆元記者は、韓国において「日本と日本人の悪に挑んできた素晴らしい日本のジャーナリスト」として韓国人を相手に講演をし、大学教授として反日活動をつづけていくのだろう。鼻持ちならない反日日本人だ。韓国人の奥さんとともに、韓国国籍をとって日本国籍から離脱したほうが、よほどすっきりするのではなかろうか。
折しも朝日新聞社長渡辺雅隆の退任が報じられている。前年同期よりも22.5%減、9年ぶりの419億800万円の赤字決算の責任をとっての退任である。 表面的には構造改革のスピードが鈍かったといっているが、内実販売部数の減少に歯止めがかからず、広告収入も激減し、まったくのお先真っ暗といわれている。
朝日新聞の良さは沢山あるので、左翼運動新聞から脱却し健全なジャーナリズムの本分を取り戻し、再建軌道にのることを祈るばかりである。
朝日新聞 終りの始まり
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プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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