朝日がついに白旗を掲げた

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 朝日新聞がついに白旗を掲げた。
 サンケイ、読売の猛攻をうけ、文春、新潮の反朝日キャンペーンのまえに、遂に敗北した。
 どこの大学にも政治経済学部があり、新聞学科があった時代には、あたりまえのごとくに朝日新聞の権威はたもたれていたが、今ではどこを探しても新聞学科はない。情報学部や国際情報学部にとって代られている。社会に於ける新聞の価値が著しく毀損しているのだ。
 そんな中で起きた今回の事件、韓国慰安婦問題と福島原発吉田調書問題は、いずれも世界に対する日本の信用を著しく落とした。とりわけ中国韓国連携の従軍慰安婦キャンペーンに対する証人として機能した朝日の誤報は、この国のメディアとしてあってはならない誤りだった。
 が今回の朝日新聞社長お詫び事件のきつかけは、なんと池上彰記事掲載拒否であった。
 池上拒否をきっかけに販売部数の低下が始まった。これでは社長の責任は免れない。
 テレビに於けるニュース解説で人気をえた池上のB層人気を読み違えた。
 そもそも朝日社内に於ける対NHKの感情はかなりのものだ。たかがNHKのアナウンサー上り、たかがNHK上りと言った気分が内在している。永年文筆をきたえて論を張ってきた新聞の優越感がある。テレビなどという軽いメディアの後塵を拝してなるものか、といった故なきエリート意識もある。このことは朝日新聞からテレビ朝日のコメンテーターに転じた人たちの鼻持ちならない上から目線を見ればよく判る。苦労しているのは現場だが、親会社とあれば仕方がない。
 官僚的朝日新聞のエリート意識、セクショナリズムと、紙上におけるキャンペーン一辺倒の軽さが、メディアとしての自己権威を貶めていった、といえばよいか。官僚的な体質をともにするメディアの近親憎悪が今回の事件だった。


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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