日本人全体のライフスタイルが、朝型に移行しつつある。
早起きに始まり、レトロなラジオ体操、朝ゴルフ、朝床屋ならぬ朝バーバー、早朝歯医者、朝チャレ、なんといつても代表格は朝ウォークと早朝ランニング、九段下のランナーズ・ステーションは皇居を走る朝ランナーで盛況だという。
1964年の冬、どこのテレビ局も棄てていた朝の時間帯を活性化したい、という話があった。当時アメリカで爆発的に当たっていたNBCのTODAYという報道番組を手本にということだったが、見てみたらどうにも参考にならない。これでは日本では忽ちに自爆するだろうということになり、主婦が関心を持つ旬のニュースと、芸能ニュース、そしてオリジナルの歌の制作、という柱をたててスタートした。歌からは「誰もいない海」「よいとまけの唄」が生まれた。タイトルのデザインは山藤章二さんに依頼した。司会ははじめ高橋敬三に白羽の矢を立てたが、パイロット版を創ってみた結果NHK風な尊大さで使い物にならない。そこでラジオの街頭録音をやっていた木島則夫を引っ張ってきた。モーニング・ショウというタイトルも当初いろいろと抵抗があっが、見てもらう、聞いてもらう、世界の事象なのだから「ショウ」でいいではないか、と押し切った。以来、民放の朝に次々とワイド・ショウが登場することとなった。
1970年、カネボウが我が国初の一億円のファッション・ショウを立ち上げるということになり、前年世界最大のミリケン・ブレックファースト・ショウの裏側にかかわった。その時はじめてビジネス・マンの朝の時間と向かいあった。全米のバイヤーが朝の7時にウォルドーフ・アストリアのメイン・ホールに集まり、朝食を済ませた8時からショウが始まる。ブロードウェイ・キャストによる最新のファッション300点をショウアップした舞台は9時に終わり、バイヤーたちは7番街に買い付けに出かける。朝という時間が、主役だった。
あの頃、朝マックも朝だけセットもすき家の卵かけ朝ごはんも、みかげ茶屋の朝飯もどこにもなかった。
朝ビジネスの50年
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プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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