初めての結婚の頃、武蔵野の小さな家を民芸風なインテリアでいっぱいにしていた。
椅子やテーブルは当然のごとく、松本中央民芸にオーダーし半年近くまって破屋に運び入れた。ベットも棚もすべて松本民芸だった。ランプはイサム・ノグチの障子紙をデザイン化したシェードを使っていた。
梁に貼られているお札は、京都阿多古の火之要慎がぜひもの、そこに金閣寺の破魔矢、祇園さんの蘇民将来などが雑多に並べられ、隙間は東北の伝統こけしで埋められていた。こけしは会津福島から白河、蔵王、鳴子、秋田木地山まで数十人の工人を訪ね、直接工人から分けてもらったり、尺前後の製作を依頼して忘れた頃、送られてきた。自慢のコレクシヨンだつたが、結婚の破局と共にすべて牛込の備後屋でオークションしてしまった。
広尾のマンションでは、えせロココな室内装飾とベネチヤ絨毯で、パリ生活の残渣を楽しんだ。
宝塚の花組やら月組の東京公演に際して、紀尾井町の松緑さん宅のパーティが終わると、次は広尾の星野さんちのパーティがお決まりだった。松竹少女歌劇の生徒達ともしばしばパーティをもった。
肉は銀座ローマイアから、寿司は六本木の福寿司、サンドウィッチは赤とんぼ、オードブルはプリンス、蕎麦は永坂更科、そしてアルコールといったメニューが定番だった。梓みちよからジャニーズ、野際陽子さんまで現れて、バブリーな空気が流れていた。
広尾のマンションにはお茶の小間と広間もあった。茶道具が溢れ、反比例して結婚も破局した。
再婚、軽井沢に住むようになって、生活はだいぶシンプルになった。家具類も北欧風なものに変わり、白壁にはシャガールやピカソのデツサンがある。ガントナーの白い橋、ミロとプレヴェールの合作、池田満寿夫の版画、そして平松礼二の赤い不二がちいさく控えている。
なによりの御馳走は、妙義連山から八ヶ岳、蓼科高原、北アルプスまでの眺望を伴ったピクチャー・ウインドーだ。空気と涼しさに恵まれた軽井沢だが、近年の異常気象ではいつまでもつことやら、高原のリゾートはいま危機に瀕している。 リスも野鳥もだいぶ逃げてしまった。
暮らしのものさしをたどる
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プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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