マリリン・モンローが不慮の死を遂げて、来年で50年を迎える。36才の死は余りにも早く、自殺説に賛同する土地っ子はまずいない。おおかたのアメリカ人は、ケネディ兄弟に近ずき過ぎて、毒殺されたと信じている。
彼女の母はRKOピクチャーズで映画の編集をしていたので、親子二代のハリウッド・ファミリーとして特別の親近感を抱かれている。その上母が大好きだった俳優ノーマ・タルマッジと世紀の女優ジーン・ハーローからとられたというマリリンの本名「ノーマ・ジーン・ベーカー」にも格別の想いが人々の心に残っている。
ブロマイドにも、マグカップにも彼女の笑顔があり、ハリウッドのスター・ツアーでも圧倒的な人気で、チャニーズ・シアター前のサインと手形にはお上りさんが群がっている。We are Stars 100の壁画でもチャップリンとマリリンが中央に描かれ、ほかの大スターはなかなかみつからない。彼女が好きだったルーズベルト・ホテルにはアーサー・ミラーとのコラージュや、プールサイドの部屋が残されていた。ジョー・ディマジオとの密会に使ったレインボー・レストラン、彼と新婚生活を送った花に囲まれた小さな家、16才の時始めての結婚式を挙げた友人の家、そして謎の死をとげた最後の家などめぐっているうちに、166.4㎝そして53.5㌔の可愛いマリリンが生きているような気がしてきた。右のヒールを4分の1吋低くして強調したモンロー・ウォークにも彼女の健気さが伝わってくる。
旅の終わりのモンロー・ツアーはビルの谷間のウェストウッド・メモリアルパークのマリリンの墓に参った。貧しかった彼女は大地には埋葬されず、かたすみにある共同墓地の40㎝四方の棚に入って泉下していた。彼女のシンボルだった深紅のキスマークがふたつ、そしてアメリカン・ビューティの薔薇の花が供えられていた。愛情に恵まれなかった彼女はいつも周りに気をつかって笑顔を欠かさなかったといわれているが、この小さな墓地の石の扉の向こうで「モンロー・スマイル」は終わっていた。
旅の終わりのマリリン・モンロー
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プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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