新橋演舞場が闇に包まれ、何処からともなく尺八の音が聞こえてきた。やがてスポットライトが影をおうと浮かんだのは虚無僧であった。天蓋をかぶり喜捨を乞わずに始まったのは、銀座旦那衆の会くらま会92回の公演だった。
この会は洋風化する銀座にあって日本の音楽…邦楽を愛する旦那衆が毎年集まっておさらいをしようという遊芸の集まりだ。
舞台を務めるのは銀座の老舗の旦那衆だから、当然の如く客席は華やかになる。新橋の芸者衆、料亭の女将たちの着物姿に交じって、夜の銀座のオミズたち、そこに旦那衆の友人、知人がはいり、星のかずほどある銀座のお店のママやチーママが加わるのだから、舞台の楽しさにもまして客席がこのうえなく楽しい。歌舞伎公演の楽しさとは、全然ベクトルがことなるのだ。
さて虚無僧で登場したのは、長野における財界の重鎮・仁科恵敏さんだ。
尺八の本曲「鹿の遠音」が佐藤幸宇山さんとの掛け合いで客席を充たした。お二人とも客席後方から登場され、客席の通路をめぐって舞台に至ったが、芯の仁科さんには花道から登場してほしかった。花道の所作をつかっての音は客席とはくらべものにならないほど艶がでる。仁科さんのお人柄が客席を歩いて演奏する演出をチョイスされたと思うが、折角花道のある演舞場なのだから晴れがましくともよかったような気がした。
二部では新橋の芸者、千代加ときみ鶴を立方にむかえての六段だった。尺八に琴と十七弦が加わっての演奏、あとは例によっての小唄、長唄、一中節など唄ものがつづいた。新橋の芸者衆も日頃のご贔屓にこたえてなかなかの舞ぶりだった。
文士劇もなくなった今、からす天狗の若手メンバーによる白浪五人男が元気元気で明日の銀座を期待させてくれた。銀座で育ち、銀座で商っている旦那衆たちの遊芸こそ、地方創生の第一歩ではなかろうか。
文化の香りのしない商売はいやらしいし、えげつない。銀座にポケモンGOは似合わない。
新橋演舞場の仁科恵敏さん
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プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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