成駒屋一家が襲名披露することになった。
目出度いはなしで、同じ中村でもマスコミ大好きでパフォーマンス型の勘九郎、七之助らとは一線をかくし、こつこつと舞台を務めてきたのが、中村橋之助であった。十月の芝翫襲名の際には、長男、次男、三男の息子達もそれぞれ「橋之助」「福之助」「歌之助」を襲名する。
そこに水をさしたが、お馴染の週刊文春、文春はこのネタは随分前から温めていて、いつ紙面にだそうかと狙っていたと云われている。つまり編集の谷間にいつでもだせるように、スタンバイしていた記事なのだ。この文春の販売戦略に見事ひっかかったのが、橋之助襲名目前の「禁断愛」というわけだ。
そもそも梨園と花街の関係については、周知のことで洗い出したら切がない。お互いに支えあって歴史をつくってきたのが、歌舞伎役者と芸妓の関係だ。互い芸の批評をしたり学びあったり、さらに芸事の好きな客を紹介したり、そこいらのAKBやら、TVタレントとの付き合いとは全く異なる。
一流の芸舞妓でご贔屓の役者の一人やふたりは日常茶飯事で、ご贔屓の興行とあれば、その日の舞台をそっくり借り切って「総見」をする、周りの朋輩やお茶屋の女将さんたちもつきあって共に応援するといった関係なのだ。まず役者の評判は花街から始まる。そこいらの演劇批評家やジャーナリストよりもはるかに深い仲にある。
そこにキリスト教的倫理観で、やれ不倫だの禁断愛などと煽ぎたて、カストリ週刊誌を売ろうなどという根性がさもしい。営業という名の販売活動に、伝統的な歌舞伎役者や花街をひっぱりこまないでほしい。
橋之助が普段から遊び好きで、あちこちで悪さをしていたのなら、週刊誌のツッコミもさもありなんだが、この場合はいささか異なる。
先斗町の「市さよ」姉さんがどのような気分で橋之助と付き合っていたかは知る由もないが、芸精進といい人柄といい決して悪いという評判はきかない。
役者のお内儀衆も興行のご挨拶はまず花街から始める。花街をしきる名妓や女将さんたちを大事にする。騒々しいメディアなんぞは後回しという事実からも、梨園と花街の絆のつよさが納得できるだろう。
文春に捕まった橋之助の「禁断愛」
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プロフィール

星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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