あのペギー葉山が亡くなった。
戦後のキャンプ廻りからから始まった彼女の一生は、アメリカ・コンプレックスの人生だった。
英語が大好き、当世赤んぼの頃から英語教育に走るバカ親の先駆者でもあった。
英語がすべてで、英語の歌だけが正しいと信じていた。初めてのヒットソングとなった「南国土佐を後にして」の歌唱を依頼しても、いちいち英語の歌をうたわせてくれるならと、面倒くさい歌い手だった。
せっかく南国土佐のヒットソングをもっているのだからと、南国土佐特集に出演依頼しても、土佐に対する知識はゼロ、土佐に対する愛情は皆無だった。
青山学院出身の音楽家は結構いて、芸能界を賑わせていた。寺本圭一はウェスタンのスターだったし、イブニングもどきを着込んで歌うペギー葉山もキャンパスクイーンだった。
作曲の平岡精二もまた多彩な才能に恵まれていた。平岡精二とともにつくった「学生時代」や「爪」などは、大人の恋を唄ったいい歌だったが、英語好きの彼女にとってはやはり物足りなかったのだろう。
それでもやっぱり英語のうたが大好きで、アメリカ渡りのジャズ一辺倒の困ったちゃんだった。
101曲というジャズボーカルの教本があったが、彼女にとって聖書より大切なバイブル。アメリカで評価されることが唯一最大の目的で、その面からはピース綾部とまったく同じ種類の人間だったともいえる。
敗戦から生まれた疑似アメリカ人だった。ブロードウェイで初めて見たミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」の虜となり、自分で訳した歌詞の「ドレミの歌」を津々浦々で唄い、ついにヒットさせたという実績もある。
スリーバブルスといい、ペギー葉山といい、みな英語かふれの歌手だったが、戦争に負けた日本に生まれるべくして生まれたアメリカコンプレックスの落し子だった。
敗戦の落し子・ペギー葉山
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プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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