押上/業平に惹かれる

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 押上・業平という地名には何故か惹かれている。
 京成電車という利に目ざとい企業のおかげで、この地名が片隅に追いやられ滅亡の道をたどっている。
 近き世にその名聞こえたる人…という古今和歌集紀貫之の選によって「六歌仙時代」の幕開けとなった作家のひとり、在原業平に因んだその地の名前だからか。 なにしろそれまでは「詠人しらずの時代」、詠み人に作家としての地位は与えられてなかった。六歌仙の時代になって初めて作る人歌詠みにライトが当たった。
 六歌仙のひとり、在原業平が初めて関東に下り、隅田川で舟遊びに興じた折、船が転覆し犠牲者がでた。その霊を弔うために業平が経塚をつくったのが、今の「業平」と伝えられる。
 隅田川に水が出たとき、その奔流に上流の土が押し上げられて出来たのが、「押上」というのも面白い。そうした歴史の事実が地名となり、人々の記憶のなかに生きてきた知的遺産ともいえるのが、こうした地名であるといえよう。
 そうした由緒を棄て、押上、業平の駅名を「東京スカイツリー駅」にしようという計画が進んでいると、新聞の片隅にあった。金になるものはなんでも金にかえたいという「さぬきうどん駅」や「味の素スタジオ」さらに「ホクト文化ホール」、近頃のそうした風潮はどうも不愉快極まりない。資本主義の汚泥のなかに文化が埋没してしまうのだ。
 スカイツリーの足元にできた大規模な「ソラマチ」という商業施設にも、この地で長いこと生業を営んできた地元業者は一軒も入っていない。テナント料が、三倍から五倍ではとても入れないというのが現実だという。テレビでは新しいアーケード街は一直線に150mだの200mとはしゃいでいるが、実は地元つぶしの大マーケットでもある。スカイツリーの竣工を楽しみに、スカイツリー丼やスカイツリー・パフェを作ってきた地元レストランにカフェ、祝い提灯を飾って繁栄を期待してきた商店街は、確実においてけぼりをくう。その時になって初めて良き時代の「押上/業平」を思い出すだろう。 
 


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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