戦没画学生に敗れた「夭折の天才たち」

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戦没画学生に敗れた「夭折の天才たち」
 「あぁ~、デッサンちゅ人の美術館なら、この畔いってお寺さんの入り口だや」
 信濃デッサン館ができた頃、上田市塩田平を訪ね、道に迷って土地の人に尋ねた頃のエピソードである。この地では、デッサン=素描などという知識はなく、土地の農家の人々はしばらくの間、デッサンという絵描きさんの美術館だと信じていたという話だ。
 作家水上勉さんの極貧時代、最初の妻との間に生まれた息子窪島誠一郎によって造られたのが、信濃デッサン館だった。当時1979年の頃、デッサンで美術館が出来ることなど誰も想像していなかった。窪島誠一郎さんは若くして死を迎えた無念の画家たちの作品を集めた。いわゆる夭折の天才たちに眼を向けたのだ。
 22歳で命を終えた森鴎外に名を受けた村山槐多、やはり20歳で天に召された関根正二、野田英夫、靉 光など。数奇な人生を歩んだみずからにダブらせた、作家へのこだわりだったような気がする。
 筆者も槐多の「尿する裸僧」の強烈なメッセージに心を奪われ、なんどかデッサン館に足をはこんだ。別館には槐多庵もあり、窪島のコレクターとしてのこだわりが読み取れた。
 が窪島誠一郎は1997年に、戦没画学生慰霊美術館「無言館」を近くの山王山にオープンした。 第二次世界大戦で戦争に駆りだされ命を落とした画学生の作品を全国から集めて展覧したのだ。
 夢見た家族の群像、永遠の別れになった恋人の横顔、新婚早々の妻、…… そこにあるドラマは絵の巧拙を超えて心に迫ってくる。無言館はそのコンセプトによって、全国から注目され、信州一の集客を誇る存在になった。
 軽井沢の来客にも、美術館は何処へ行ったら、と尋ねられれば、迷うことなく上田の「無言館」に行くべきですと答えてきた。戦地での死を覚悟して、旅立つまえの画学生たちの筆には、理屈抜きの生命観が溢れて慄然とするのだ。
 3月15日、「信濃デッサン館」は閉館される。
 夭折の天才たちとはいえ、戦没画学生の無念に勝つことはできなかった。


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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