戦後最大の詩人、星野哲郎。

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 星野哲郎さんと半年ばかり毎週会っていたことがある。武蔵野の面影が残る小金井の森にあったお宅の陽だまりで、来週のテーマはあれこれと話し合っていた。すでに歌謡曲の大御所として功なり名をとげていらしたのだが、嫌な顔ひとつ見せずにペンをとってくれた。
 当時僕はテレビのショウ番組を創っていたのだが、プロダクション・ナンバーが終わってその余韻を味わうことなくいきなりCMに入るという構成がどうしてもなじめなかった。コマーシャルに入る前になにか番組のカロリーをさらにアップする方法はないものかと模索していた。
 そんなある時、渋谷のバーで寺山修司にばったりと会った。いつもの芸術談義のなかで話は詩と詩人に及んだ。寺山修司がその時いみじくも言った言葉が、いまでも忘れられない。「僕はなんでもやってきたのよ。短歌も、詩も、戯曲も、小説も、だいたい自信もある。だけどとうしても書けないのが、日本の庶民の心情なの。やっぱり星野哲郎にはかなわない。星野哲郎という人は日本最大の詩人だ。」といってため息をついた。
 そこで閃いたのがシーン・テーマを受けた30秒の短詩を星野哲郎に書いてもらいCMに入ったらどうか、ということだった。落ち葉を踏み分けてお宅に伺った。真剣にきいてくれた哲郎さんは、「判りました。でも番組の内容をしつかり把握しないと書けないので、毎週のテーマと内容をレクチャーしてください。」かくて僕は毎週小金井に通い、哲郎さんは毎週倍の数の詩編を書いて六本木のスタジオまでとどけてくれた。詩編に対する映像は立木義浩さんが慣れないテレビカメラを駆使してつくってくれた。わずか30秒の言葉と映像は他局のスタッフから絶賛され、自局ではスタッフの仕事が奪われると非難された。


コメント

1件のフィードバック

  1. すごいエピソードをありがとうございました。

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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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