軽井沢町民オペラの第四回公演に、ドニゼツティの「愛の妙薬」が取り上げられた。
世界中でこの作品ほど、気楽に愛されている作品はない。達人ドニゼッティが僅か二週間で書き上げたのは、自家薬籠の素材によって、楽しんで書かれた作品だからでもある。
なにしろ彼は生涯に70本のオペラを書いた、大職人作家だった。
地方でオペラを上演するとき、まま東京衣装の貧弱なドレスをごっそりと借りてきてアクセサリーもなく、貧弱な身体にまとって、貴族の宴など繰り広げるが、観客にとってあれほど迷惑なものはない。知らない世界の金持ちを真似しても所詮は偽物、眼が腐ってしまうのだ。
そうしたコスプレ風オペラの多いなかで、大畑晃利プロデュースのオペラ運動が、すこしでもご当地に翻案できる作品を取り上げたのは賛成だ。
戦後のある時期、にほんのオペラのあるべき姿が盛んに論じられたことがあった。イタリア語と日本語の問題、そしてなによりも文芸素材として中世ヨーロッパ貴族の恋物語などを、苦労して上演する意味があるのかどうか、そうした議論のなかから生まれたのが、木下順二と芥川による「夕鶴」だった。その「夕鶴」も10年かけて改作改変を重ねこんにちの姿になった。
筆者も八百屋おしちから材をとってオペラ化し、新国立で上演をはたしたが、再演の機会は少なく一年に一回ぐらい地方のオペラで取り上げられるのが精々といったところだ。
さて「愛の妙薬」だが、アメリカではカーボーイと村娘に、ヨーロッパでは市場のマドンナと肉やの若旦那、更に売れない画家ゴッホと美しいモデル、などと置き換えられて上演されている。
町民オペラでは、今話題の発地市庭を舞台に農民と消防団に置き換えて上演された。
皆楽しそうに出演していたのでなによりだが、日常衣装のコォーディネートや、シンプルなりの舞台美術についてもう少し神経を使って欲しかった。金を使わなくともセンスのある表現はある。
オケも基本編成はさほど変わらず二管が一管になって奏者は大変だったかもしれない。ただあちこちを補奏したであろうピアノが良く聞こえなかったのが残念だった。
愛の妙薬は千曲錦
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プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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