ダリダほどドラマティックな愛の一生を送った歌手はいない。
21歳のとしミス・エジプトになり、大志を抱いてパリへ渡った。
プロデューサーとして彼女を育てたリュシアン・モリスに恋し、彼を奥さんから奪って結婚したが、三週間後には愛人のもとに走った。
美貌とのびのいいアルトに恵まれた彼女の唄声は、パリの街角からカフェに溢れ、ダリダはシャンソンからポップスのすべてを征服していった。バンビーノ、コメプリマ、ラストダンスは私に、チャオチャオバンビーノ、ビキニスタイルのお嬢さん、日曜はだめよ、ラストワルツ……彼女に唄われた唄はことごとくヒットした。
まもなくの出会いは若き作曲家ルイジ・テンコだった。二人の恋は狂熱的だったが、彼は彼女の名声に押しつぶされ自殺してしまう。絶望のなかで彼女も後追い自殺をはかったが、5日間の昏睡ののち、現世に戻されてしまった。
別れた夫も銃による自殺を図り、あの世に旅立ってしまう。
不思議なことに失った愛に反比例して、ダリダの唄声はますます輝きをましていった。
40代の女盛りには、フランスの支配者ミッテラン大統領の愛人として身体を投げ出したこともあった。
それでも人気は衰えることなくフランスの歌姫として君臨した。
アランドロンとのデュエット曲パローレパローレがヒットしたのもその頃。恋するジジ、待ちましょう、ベサメムーチョ、サルマヤサルマと、次々にヒット曲をだした。
50代にさしかかった時、さらに新しい恋を手にいれたが、まもなく彼もガス自殺してしまう。
愛した男のすべてを自死に追い込んだダリダは、「人生は私には重すぎる…私を許して…」この言葉を残し、モンマルトルのアパートでウィスキーをあおり、大量の睡眠薬と共に自らの命を絶った。54才だった。
彼女が死して15年後、フランス政府は記念切手を発行して弔った。彼女の住んでいたモンマルトルの丘には、ダリダの広場ができ、胸像が飾られた。ファンは彼女のムネに触れて涙を流している。
死を迎えるまで衰えを知らなかった彼女の肉体はそのまま彫像となってモンマルトルの墓地にある。
数あるパリの墓碑のなかでもピカイチの輝けるお墓になっている。
愛と狂熱の歌姫・ダリダ
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プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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