朝刊はまず父の席に持って行った。
父が眼を通す前に子供たちが新聞をみることは許されなかった。母は台所にたっているのだから、新聞を読むひまなどなかった。きちんと畳まれた新聞は、父が座るべき卓袱台の席の右側に置かれていた。
一面の見出しが大きく半分見えるのだが、それ以上のニュースへの好奇心にはセルフ・コントロールがかかっていた。
あの頃の新聞は情報の出入り口としてみんなから絶大な信用をえていた。新聞は嘘つかないと、信じていた。だから天皇陛下の御為に命をすてて戦うことは崇高なことだとしんじていた。
ある時を境に、いちばん偉いのはルーズベルトであり、絶対的命令権をもつのはマッカーサーという人だと新聞に教えられた。民主主義という言葉がクローズアップされ、それ以外はすべて犯罪行為のごとく扱われるようになった。
闘いには敗れたが、日本の兵士は潔くたたかったと信じていたが、ある時から従軍慰安婦のことがさかんに書かれ報道されるようになった。
そのころから新聞の裏一面はラジオ・テレビ欄一色になった。局に出入りする新聞記者もラジオ・テレビ部所属という名刺をもっていた。とても不思議だった。番組一覧は局がつくっている。番組解説も担当者が書いている。だから新聞社はやることがない筈なのに、それでも一流新聞社の記者はラ・テ欄担当を名乗っていた。たまに番組評などのっていると社外の執筆者が多い。
大衆が地上波テレビへの興味を失い、広告すらネットへの出稿が多くなっても、いまだに裏一面はテレビ欄という新聞が多い。
紙面構成について、思考停止状態がつづいているとしか思えない。日経だけが興味深い文化欄を裏面に持ってきている。記者の能力は、アベツブシと9条大事とアゲアシ取りだけというのは、悲しい。
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プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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