従軍慰安婦部隊の真実

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 終戦記念日、軽井沢の由緒ある友人が届けてくれた。
 家にあってもどうしようもないし、いま話題のことが書いてかいてあるから、持ってきたというのだ。昭和24年11月1日発行の「小説文庫オール實話版」である。
 表紙の囲みに…太平洋戦争海軍編 戦争と性の暴露・大胆率直なこの告白・慰安婦部隊…とあり、筆者は従軍慰安婦鳴海さだ手記 と書かれている。話題の中心となつた問題作・熱狂の続編と目次にあるからには正編多分陸軍編があったであろうことが、推察できる。
 彼女らの出陣は横浜からの海軍特務艦であったと記され、南方各地の海軍前進基地に配属された。シナ事変の時は、ただの慰安婦だったが、太平洋戦争になると陸海空それぞれの軍属という身分で、その名も特殊看護婦というしかつめらしい名前に改められた。がつとめの内容は同じ、前線の兵隊さんの肉体的欲望をいやし、慰めてあげる、それが私たちの使命でした。と疑いもなく健気である。
 港港で大勢の女たちが下船し、丹波篠山の山脇さんというお父さんに集められた一行32名はスラバヤ港に降り立った。さあ、開店準備、スラバヤ河に面した二階建ての元ホテルが新しい職場。受付、切符売場、応接室、警備隊の詰所などが、たちまちにして出来、足りないベットも調達されて、お父さんは軍隊のやることはキビキビして気持ちがいいね、と感心しきり、最後の身体検査も終わって全員集められると、院長さんから「あなた方には一人も梅毒、淋病はありません。みんな綺麗な体です。張り切って慰問してください。しかし衛生には充分気をつけて、ひとりも病気にかからぬよう注意してください。必ずサックを使用すること、もし使用しなかったことが判ったら、あなた方も兵隊もともに罰せられますから、充分注意して兵隊が無理を言っても応じないようにして下さい。」
 かくして「海軍指定第一慰安所」の看板がスラバヤの門にかけられたのです。(この項続く)


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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