役者馬鹿・三国連太郎を悼む

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 三国連太郎は戦後最大の役者馬鹿だったような気がする。
 この場合の役者馬鹿は、尊敬に値するスケールの大きな名優だったということだ。
 伊藤雄之助とともに三国連太郎は、役になりきる桁違いのカロリーをもっていた。森繁久彌は俳優人のボスとして人気者として君臨したが、脚本を前にしたときの読み込みの深さでは、三国のまえに脱帽せざるを得ない。
 西伊豆土肥に私生児としての幼少期を過ごし、下田港から密航をくわだて、青島から釜山で弁当うりをしたという挿話も楽しいし、役者になった後、監督の仕事に惚れて五社協定を破り、松竹大船撮影所の門扉に「犬、猫、三国入るべからず」と掲出されたのも痛快な武勇伝。
 役者馬鹿のみならず怪優、奇人と呼ばれていた。渡された脚本はいつも真っ黒になるほど書き込まれていて、入り込むと歯は抜くし、ラブシーンでは本気になり、あわや挿入されそうになった女優もいた。
 結婚は四度、恋愛は無数と豪語していたが、19歳の太地喜和子は最大の恋人と呼んでいた。太地の実家に押しかけ、土下座して許しを請い、そのまま同棲したがわずか三か月で家出をした。書置きに「つかれた」と一言、さすがの三国も太地のエネルギーに太刀打ができなかった。
 それでも「僕は男に影響をあたえる女が好きです。」
 三人目の妻との間にできた息子佐藤浩市は「僕と彼との間に介在したのは、役者という言葉だけです。父としては語れません。」「死顔は、ここ数年のなかで一番凛とした立派な顔に見えました。威厳がありました。」…世紀の名優に冥福を捧げたい。


コメント

1件のフィードバック

  1. まだ、三国連太郎さんの大きさが分かる世代ではありませんが、佐藤浩市さんの成長をしっかり追い掛けてまいります。

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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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