久しぶりに「香川の女(ひと)」と言葉をかわした。
学生時代、初めての船の旅は香川・高松だった。本州はどこもかしこも米軍の空襲で焼跡だらけだったが、はじめて四国に上陸したとき、ここは蓬莱山かと思うほど、清潔で美しく思えた。
いちばんに足をむけたのは屋島だった。壇ノ浦に滅びた平家のものがたりが気になっていた。屋島の山頂から、あの辺りが安徳天皇の仮御所、あの岬の裏が平家の船隠し、那須の与一が見事に軍扇を射止めたのはあの辺と、源平の昔が目の前にあった。
栗林公園を後に、瀬戸内の海を右に身ながら西へむかった。塩田の跡が行けども行けどもつづいていた。車に揺られながら、浦島太郎も桃太郎もみなこの香川の地から生まれたのが、不思議だった。後に演出の仕事をやるようになって、対峙した向田邦子も、安倍公房もみな香川に縁の深い作家だった。
歌舞伎の名脇役市川團蔵の先代も、お遍路にでて香川の海に入水して役者人生を閉じた。 飴屋の五人百姓を横目に、金丸座では金毘羅歌舞伎など華やかに開かれているが、歌舞伎にとって香川の地は因縁あさからぬ土地でもある。
三越劇場で初演出のとき、色々と教示してくださったのは劇作の会の斉田喬先生だった。丸亀城の一隅には斉田喬文学碑が建てられている。
祇園の芸妓衆から夏のご挨拶に届けられる団扇に、あの見事な丸亀城の石垣にダブって、丸亀のうちわを思い出す。
森鴎外の「金毘羅」も、志賀直哉の「暗夜行路」も、芦原すなおの「青春デンデケデケデケ」もみな本棚にあった。温暖な瀬戸内の海が文学を育てるのだろうか。
直島の地中美術館に行ってみたい。琴弾公園の銭形砂絵を拝んでこなかったので、財布が軽いのか。プラヤ・カフェで瀬戸内の夕陽を見たい。夢はつきないが、多分犯行未遂におわるのだろう。一泊二日弾丸うどん旅はいらない。
コメント
プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
コメントを残す