平尾昌晃とふたりの女

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平尾昌晃とふたりの女
 平尾昌晃が逝った。ロカビリー三人男として、満天下の子女を熱狂させたあの日劇の舞台が懐かしい。初めて日劇の舞台にトイレのロールが飛んだ。舞台に少女たちが殺到して平尾のズボンに手をかけ、ひっぱってぬげそうになったこともあった。日劇ウェスタン・カーニバルは戦後日本の音楽風景をガラリとかえた。
 ミッキーカーチス、山下敬二郎、そして平尾昌晃だった。この三人に眼をつけたのは、渡辺美佐さんだった。マネージメントという言葉をメジャーにしたのは、渡辺美佐さんだ。日本女子大をでたのち、父親の影響から音楽プロモーターの道に入ったのだが、いち早くアメリカのマネーメントシステムを日本に導入した先駆者だった。
 平尾昌晃にとっての第一の女性こそ渡辺美佐その人だった。渡辺美佐はロカビリー三人男のなかから平尾昌晃をもっとも愛していた。
 柳家金語楼の息子に生まれた柄のわるい山下敬二郎、金と女にだらしなかったミッキー・カーチス、に比べはるかに育ちのよかった平尾昌晃に惚れたのだ。
 ワタナベプロの新人たちはつぎつぎと平尾の楽曲でマイクの前にたった。
 梓みちよは「渚のセニョリーナ」、伊東ゆかりは「恋のしずく」、小柳ルミ子は「わたしの城下町」「瀬戸の花嫁」、園マリは「泣きぬれて」、中尾エミは「花のさだめ」、布施明は「霧の摩周湖」、沢田研二は「あなただけでいい」、天地真理は「ふたりの日曜日」、最後にはドリフターズまでが、平尾のヒット曲「ミヨちゃん」を唄った。 渡辺美佐さんは心から平尾昌晃の才能に惚れていた。
 1968年平尾昌晃は肺結核をわずらった。長野県岡谷塩嶺病院で療養生活を送り、肋骨6本をとる大手術で復活した。そして出会ったのが銀座のママ山口洋子だつた。山口洋子の詩は平尾の心をゆさぶった。
 「よこはま・たそがれ」によって五木ひろしを復活させた。「長崎から船にのって」「夜空」「別れの鐘の音」とつづき、平尾の作曲の幅がさらに広がった。平尾昌晃+山口洋子のゴールデン・コンビは日本歌謡界に新たな風をもたらした。
 必殺仕事人シリーズの印象的な劇音楽、宝塚歌劇団ベルバラの劇中歌なども彼の新しい才能の分野だった。そして平尾の初心が蘇ったのが「平尾昌晃音楽学校」の開校だった。全国各地に分校をつくり、音楽人口の裾野をひろげた。慶応高校在学のころ、日本ジャズ学校に学んだ彼の青春がよみがえった。
 隣りのクルマから降りてきて、「 …先生お元気ですか。」人なつこい表情で話しかけてきた平尾昌晃の笑顔が浮かぶ。          合掌


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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