巨大看板の終焉

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巨大看板の終焉
 巨大看板が町を彩っていた良き時代は遠きノスタルジーになりつつある。
 山の手線にのってぐるりと一周したことがあった。見渡すかぎり焼け跡、焼け跡、焼け跡の廃墟に手ずくりの防空壕が残っていた。そこに登場したのが「結婚とはなんぞや」の巨大看板。意味がわからない。結婚とはなんぞや、と問いかけられても学生たちの想像力には無理難題だった。のちに大塚の結婚式場の看板とわかり、ホットしたのを覚えている。
 あの頃は巨大と云えば、映画館の看板だった。
 映画看板は主演スターが大きく描かれ、それに大きな題名とキャッチフレーズ、出演陣、スタッフ名が描かれた手仕事だつた。いまでも青梅の街へ行くとそうした看板にお眼にかかれる。
 ジョン・ウェインの駅馬車、ヘップバーンのローマの休日、オーソン・ウェルズの第三の男、チャップリンのモダンタイムス、マリリン・モンローの7年目の浮気、黒沢明の七人の侍、市川雷蔵の大菩薩峠、京マチ子の千姫、キャサリーン・ヘップバーンの慕情、等々
 青梅はレトロな看板の街として、あちこちに懐かしい映画看板がある。
 平面巨大看板に対して、立体的な巨大看板を売り物に登場したのが、大阪道頓堀……。
 片足を上げ、両手で万歳をしているお馴染み「グリコの看板」外人観光客は手前の戎橋で同じポーズで写真を撮っている。かに道楽の「動くかに」看板は、後ろでバイトが自転車をこいでいるという都市伝説がたった。ふぐの眼が時々ピカッと光るのは、「づぼらやの巨大なふぐ」看板。大阪王将の「巨大すぎるギョウザ」も思わず参りました。道頓堀コナモン・ミュージアムの「巨大タコ」、元祖廻る元禄寿司の「寿司もつ巨大な手」、そして「くいだおれ太郎」のチンドン看板と大阪人の根性には巨大立体看板がフィットする。
 ロスの丘にそびえるHOLLYWOODの巨大看板はアメリカ文化の入口だった。
 ラスベガスの大通りは巨大看板のメッカだったし、ダウンタウンには何百メートルの走るネオン広告があった。JUST MARRIGEと教会に掲げられたネオン塔は信じられなかった。
 さらにアメリカを感じたのは、タイムススクエアの光の洪水だつた。あの光の洪水のなかに、SONYやTOSHIBAが加わった時は、わけもなく感動した。
 イースト・リバー沿いにあったペプシーコーラの看板が25年間の議論の末、このほどようやくニューヨーク歴史建造物として認定された。
 高さ18メートル、幅36メートルのペプシーの看板は、歴史のなかに入ってしまった。


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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