山田五十鈴という生き方

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 山田五十鈴は2012年7月9日、95才の天寿を全うした。
 新聞やテレビには、最後の大女優とか、稀有の大女優と賛辞が並んでいるが、彼女を語るとき、彼女の男の歴史なくしては、語ることは出来ない。
 新派の人気女形を父に、曽根崎新地の芸者を母にもつて、大阪千年町に生まれた彼女は、幼くして男と女の物語の洗礼を受けた。同棲も放蕩も駆落ちもみな日常のなかにあった。
 最初の結婚は18才のとき、今にいうイケメン俳優月田一郎、初恋の人だつた。そこで彼女は早くも夫婦の情愛などとるに足らない、芸道の深さ美しさこそ総てと悟る。
 女優にはプロデューサーが必要だといって言い寄ったプロデューサー滝村和男と第二の世帯をもつが、忽ちにして絶望、おりからの戦時下で長谷川一夫、片岡千恵蔵、中村翫右衛門、辰巳柳太郎、滝沢修らを相手に酒と欲望の日々を送った。
 そして27才の山田五十鈴は、49才の花柳章太郎に心引かれ、新派の女形芸を吸い尽くした。二人は祇園町を寄り添って歩き、新演技座に於ける「藤十郎の恋」に結実、六代目菊五郎にも劣らぬ名演と評判を取った。
 映画「ある夜の殿様」松井須磨子役の映画「女優」で女優開眼と騒がれたのは、映画監督衣笠貞之助との短い同棲だった。レンズの前の演技について、名匠衣笠のメソードをすべて学んだ。
 戦後貧困と左翼の時代には、民芸の実力派加藤嘉と略奪婚をし、人民の哲学を離さず映画「女ひとり大地をゆく」の名作を残し、彼が没したあと同じ民芸の下元勉と原宿に居を構え、リアリズムの芸の肥やしにした。
 いつも現状に甘えることなく、高みをめざして恋に生き、芸に生きた山田五十鈴に見事な女優魂をみた。


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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