局留になった市川海老蔵

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 團十郎事務所から事務所移転の知らせがきた。
 團十郎事務所すなわち海老蔵事務所である。青葉台のあの由緒ある團十郎家を棄て、移転することになった、とある。
 因みに青葉台には江戸歌舞伎の宗家といわれる團十郎と舞踊市川流のための立派な舞台があった。
 ご案内にはその舞台の行方も、市川流の移転先も、事務所の行方も、書かれていない。 人気役者海老蔵のことだから、更に立派な舞台のある團十郎本家を建設するのかもしれない、と解釈したが、そんなことはどこにも書かれていない。
 移転の理由が振るっている。コロナだからすべてリモートにするため、と記されている。團十郎本家の移転とはなんの関係もない。
 ましてや芝居の稽古場も市川流舞踊の稽古場も、事務所の行方もわからない。住所が書かれていないのだ。郵便物はすべて目黒郵便局局留、メルアドだけが書かれてある。クロネコも佐川も受け取ることはできない、とある。本人の住所は非公開でいいが、事務所の存在は社会との接点である。
 デジタル時代になって、住まいはメルアド、住所不明世代が増えている。
 軽井沢でも先の町長選挙に立候補した女性がいた。自分の住所をあかさないのだ。痴漢やパパラッチに襲われるかもしれない、という理由だったが、住民が住所不明の町長を選ぶわけもなく落選した。
 住所は社会人としての責任証明でもある。それが理解できなくて町長に立候補しようというのだから、何おかいわんやである。
 そうした非常識が役者にまで蔓延したかの思いである。
 女房の癌ものがたりや、息子、娘のファンならばいざしらず、昔ながらの成田屋贔屓にとっては訳がわからない。歌舞伎ファンも、成田屋ファンもいらない、これからはテレビ人気の歌舞伎知らずのファンさえいてくれれば、の思いかもしれないが、それではいつまでも続かない。テレビで得た客はまもなく雲散霧消する。テレビは落日のメディアなのだ。
 歴史に名を遺す名門市川團十郎の名前が泣いている。 


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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