安室奈美恵を分解する

by

in

安室奈美恵を分解する
安室奈美恵が引退を宣言した。
テレビでは大騒ぎしているが、それほどの感興がわかない。何故か考えてみた。長い間折にふれて彼女の活動は見てきたし、音楽も聴いてきた。がそこにあった彼女はつねに異邦人の趣きだった。アメリカの植民地と見まごうばかりの沖縄で生まれ育ち、彼女の肉体には日本語が住んでいない。
安室奈美恵の左腕にある入れ墨は英語ばかりだ。
JUN.30in1950 My mother’s love live with me Eternally in my heart R.I.P MAR.17 in 1999
右腕にも入れ墨はある。 Love Peace World もしも彼女が有名人でなかったら、公衆浴場や温泉にははいれない。身体にタトーのある方のご入浴はご遠慮下さい。日本の常識社会をはみ出している。
 彼女が何百億か稼せいだ楽曲を見てみよう。
 例えば TRY ME / Don’t wanna cry / a walk in the park / CAN YOU CELEBRATE? / NEVER END 等々…… あれだけ多く歌ったにも係わらず日本語の歌は一つもない。日本語が嫌いだったのか、日本語の教育を全く受けなかったのか、それとも英語で歌うことがカッコいいという単純な理由からか、いずれにしても彼女の生活に日本語はなかった。
 ファッション・アイコンとしての安室奈美恵を見てみよう。
 先ず異常に細い眉、作為に満ちたこの眉はたちまち若者を虜にし、美容院や床屋をうるおした。茶髪そしてロング・ヘア、デザインいらずのロングでは美容師の腕は落ちたが、サロンは毛染めで多いに稼いだ。
 バーバリーのミニスカートは、ライセンシーの三陽商会を好況にしたが、いま三陽はバーバリーからライセンスを取り上げられ危機に瀕している。
 そしてタトー・シールや眉毛プレート、厚底のロングブーツなど、一時的に産地をうるおしたが、所詮バブル期の仇花、失われた10年の象徴といわれた。
 カジュアル・ファッションのパイオニアだったが、アムラーからマムラーへ、エレガンス不在のファッションを形ずくったアイコンだった。
 結局、安室奈美恵は沖縄という不幸な地に生まれ育った、無国籍なブラック・ミュージッシャンだったといえよう。


コメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です


プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


カテゴリー


月別アーカイブ