嫌われものの鉄道マニア

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嫌われものの鉄道マニア 嫌われものの鉄道マニア2
 「撮り鉄」 「乗り鉄」 「駅弁鉄」 「バリ鉄」 「音鉄」 「葬式鉄」……
 こんなに沢山の鉄があることを、不覚にも知らなかった。ここまで細分化した鉄道マニアって、なんだろうと考えてみた。
 しなの鉄道沿線でも、桜の花の季節をまえに四本の桜が、なにものかの手によって切られたと報道された。チェーンソーによって、線路脇の桜は見事な切り口とともに葬られた。明らかに「撮り鉄」の仕業とみなしたが、現場を押さえなければどうしよぅもない。疑ったしなの鉄道が逆に「撮り鉄」の反発をかって、ツィッターが炎上する騒ぎとなった。
 かって日本映画の名匠たちは、ロケーションの先々で、あの木は邪魔だ、あの看板を笑え(笑うとは除去せよを意味する業界用語)、と乱暴を働いてきたが、地元の人々は、芸術のためなら、黒沢監督のためならと、あきらめてきた。
 それがいまでは普通の人々、マニアの人々に蔓延している。
 ”ありがとう!” “さようなら!” とホームから団体で叫ぶ「葬式鉄」のファンにも、国鉄は困惑の限りだという。うっかり眼をはなすと車中に侵入し、ラストランの記念品とばかりに、プレート、看板、毛布の類いを持っていこうとする。泥棒とか窃盗の意識がないのだ。
 優しく育てられ、叱られることなく育った新人類のオバカは、本当に困ったことと嘆いている。
 総武線の線路内に座り込んでカメラを構えた「撮り鉄」は成田エクスプレスにはねられて死亡したが、鉄道マニアに起因するトラブルは増加の一方と伝えられている。
 自由と犯罪のけじめ位は、徹底的に教育すべきだろう。


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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