夜間瀬のあけび工房にいってきた。

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 志賀高原の入り口から左の奥にむかって「夜間瀬」と呼ばれている山間地がある。
 日本海からの湿った空気が高井富士と呼ばれる高社山にぶつかって降る雪に恵まれた山間の高原地帯、付近には大小70以上の湿原や池が点在している。これからはスキーのメッカになる。
 「夜間瀬」と言う響きがなんとも魅力的で、地名への興味に胸をつかれた。昔は夜が交わると書いて、「夜交」ヨマセと呼んでいたこともあるという。夜が交わる…なんという妖しい地名かと心ひかれた。
 その夜間瀬のなだらかな桃の畑のまえに(いやりんご畑だと直されそうだが、このさい桃の畑と信じたい)彼の寓居があった。目の前の山波がシルエットになり、桃の枝々がちいさな波を起こした頃、天に向かって消えていくように長野鉄道、いや銀河鉄道が闇のなかを走っていく…まさに宮沢賢治の世界がそこにあつた。彼はそこでロクロを廻し、絵付けをし、炉をたいていた。彼は若いときから「オジイ」と呼ばれていたので、高齢のいまでも白髪の「オジイ」のままだ。
 その彼から、今度夜間瀬の谷間の古い農家を手入れして工房を作ったから観に来ないか、という誘いを受けた。「夜間瀬あけび工房」ロクロで泥をこねる人、機をおる人、木工に興じる人、いろいろの仲間がそれぞれ勝手に仕事をしていた。台所では何人かのお母さんが、立ち働いていた。みんなボランティアで集まっているという。静かな充足感が流れていた。
 数年後の一昨日、「パリの昨日今日」を映像とトークでやることになった。パソコンとプロジェクターとスクリーンを積んで夜間瀬をめざした。
 朝から「雪囲い」をし、「案山子上げ」ののちナオライをして、さてパリに触れようというミス・マッチな会だった。案山子上げの乾杯を仰せつかった。案山子上げの意味については、それぞれの地方でいろいろな解釈があるので、あまり深入りできない。ナオライの料理はとても美味しかった。
 トーク・ショウのあとには蕎麦餅のお汁粉が振舞われた。これも美味しかった。
 オジィは師匠と呼ばれて、夜間瀬の皆から愛されていた。友人の名は「藤本勉」氏である。
 


コメント

1件のフィードバック

  1. 峠の地蔵のアバター
    峠の地蔵

    友、来たる うれし
    互いの、現役を よろこぶ
    古民家とパリ・・非日常のトキメキ
    ありがとう

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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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