京都四条通り、鴨川の東に南座がある。
桃山風なしつらえの歌舞伎のための劇場だ。江戸期には鴨川をはさんで七座あったといわれているが、いまは一座しかない。道の向こうの八つ橋やの屋上に北座と看板が上がってるが、かってここに北座ありという思い出づくりで、劇場があるわけではない。
11月の末になると「まねき」が劇場正面にあがる。「まねき」とは、出演する役者の名前を書いた大看板のことで、長さ180㎝幅30㎝のひのきの一枚板である。 〆て54枚、家紋と役者の名前が伝統の勘亭流で墨痕鮮やかに書かれている。その下には昼夜八つの狂言の絵看板が並び、屋根のうえには梵天の飾られた櫓がしつらえられ、江戸の昔を今に甦らせている。この吉例顔見世興行は東西合同大歌舞伎と銘され、上方の和事と江戸の荒事がぶつかり狂言の緊張を造りだす。都の歳時記として、永く京の町衆に愛されてきた。
まねきが上がると町中なんとなく華やいで、花街から劇場に通う役者衆とともに、町衆のひとりひとりが評判をつくる。役者も南座の顔見世には格段の力がはいり、ひいきも芸舞妓もみな舞台の批評に、うつつを抜かす。
ことしは六代目勘九郎の襲名披露があり、父勘三郎の不幸もあって、客席には暖かい拍手や掛け声が充ちていた。藤十郎、仁左衛門は言うに及ばず、団十郎、左團次と大名跡のなかの勘九郎は緊張の連続だったろう。
歌舞伎十八番の船弁慶では、静御前と平知盛の二役をこなしたが、静の発声が全く駄目で女形はこれからの勉強に期待しよう。知盛の霊となってからは、別人のごとくに立派で薙刀を奮っての荒ぶる豪快さに、客席も巻き込まれ大きな喝采を贈った。
団十郎さんの体調不良で休演になったのは残念だが、翫雀、橋之助が頑張って無事代役を勤めた。團十郎さんのふところの深い芝居姿、桜の頃には観られるだろうか。
四条に「まねき」が上がった
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プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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