喫茶店に文化のあった時代

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 西荻窪の駅前に「こけし屋」という喫茶店があった。
 中央沿線の作家や文化人が集まる二階座敷があり、沿線文化の発信地だった。学生時代のコーヒー・デビューはこの店だったが、その時の味はまったく記憶にない。
 山本安英さんが朗読の勉強会を開き、そこで夕鶴を読んだり、スタニスラフスキー演技術について知識を深めた。のちに立教女学院の友達とモーツアルトや、ショパンのレコード・コンサートを開いたりした。こけし屋の二階は文化のカオスだった。
 「名曲喫茶」が登場したのは、新宿や銀座だった。名曲喫茶の主役は正面に鎮座した左右のスピーカー……、特大のALTECやTANNOYが置かれ、圧倒的な音量でクラシックの名曲が流れていた。清楚なおねぇさんがニコリと微笑んでリクエスト・カードをおいていく。
  ワーグナーにしようか、それともマーラーでいこうか、指揮はトスカニーニ いやフルトベェングラー、キザな若者のなかにはスコアーを手に指揮の真似事に酔っている奴もいた。
 「美人喫茶」という名の怪しげな喫茶店も流行った。キレイなおねぇさんが何人もいた。憧れのステュワーデスの服装をまねて店内のあちこちでポーズしていた。15分位で位置移動する。つまり一時間もねばっていれば、一通りのおねぇさんを近くで拝めるという有難い喫茶店だった。
 「シャンソン喫茶」は松坂屋の南側にあった銀巴里にとどめを刺す。美輪明宏を始めて聞いたのも銀巴里だった。薄暗がりのなかに化粧した美少年は信じられないほどの妖気を発散していた。この時の体験がのちの「ヨイトマケの唄」誕生を呼んだように思う。
 いまスタバやドトールでお茶する若者たちに、かって喫茶店にあった文化を説明しても軽蔑されるだけだろう。熱っぽく論じあったサルトルやボーボワールは、何処かへ消えてしまった。


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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