呆れた日本の五輪選手

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呆れた日本の五輪選手
 リオ五輪は工事の遅れや、治安の面からも散々だつた。
 がなによりも不愉快だつたのは、選手たちの多くにスポーツ精神がなかったことだ。第一回アテネ五輪で掲げられたスポーツに対する崇高な志は雲散霧消していた。
 選手たちはなにを考えて努力を積み重ねてきたのかわからない。新聞やテレビでは、幼いときからの両親の愛情やら、友人と共に努力してきた時間を書き立て、賛美しているが、開会式の実況中継をみて、愕然とし、あきれた。
 自分たちの入場パレードが終わると、さっさと後方に集まり三々五々何かを始めた。
 明日からともに闘う相手に関心がない。闘う相手が入場しているのに全くみないのだ。
 開会式は明日からスポーツを舞台に闘う君たちのためにやつているのだ。主催都市の人々が何日も前から準備し、稽古を重ねて君たちを歓迎し、鼓舞してくれているのが開会式ではなかろうか。そうしたことに対する敬意もないあなた達に、巨額の税金を出して、地球の果てまでいっていただいた私たちが馬鹿だつたのかもしれない。税金は国民全体が拠出しているのだから、いますこしの理性があれば、開会式にやっていいことと、してはならない事の判断ぐらいはつくのではなかろうか。
 各国の入場行進中にあなた達のやっていたことは、スマホによる自撮り、お互いのスマホを交換しての記念写真ゴッコ、その風景が世界中にテレビを通じて配信されたのだ。
 オバカの限りである。そんなに自分たちの写真が撮りたいか、金銀のメダルをとれば、だまっていても世界中のメディアが写真を撮ってくれる。開会式の最中に自撮りに狂うのは、競技に自信がないか、よほど無教養な選手に違いない。
 結婚式の前撮りに、カメラマンやスタイリストを従え、世界を歩き回る中国人を、笑えない日本の五輪選手が、恥ずかしくもあり、おおいに呆れた。


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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