向日葵の咲かない夏

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向日葵の咲かない夏
 今年の夏の異常気象には、とんでもなく振り回された。というのは「ひまわり」を撮影しなければならないという課題があったからである。
 北海道の美瑛には何度か通ったことがある。ラベンダーに限らずあまりにもいろいろな花があるため、壮大な花の絨毯に気をとられ、ついひまわりの花と真剣に向かい合ったことがなかった。必要に迫られ、今年はどうしてもひまわりの花の撮影を完了しなければならなかった。
 戦後少女雑誌の原点といわれているのが、雑誌「ひまわり」だった。戦いが終わった東京の町は防空壕や掘立小屋だらけ、そこに突如現れたロマンティックに彩られた雑誌がひまわりだった。中原淳一の美意識が隅々までいきとどいて10代の少女にはもったいない雑誌だった。大きな眼の淳一描く少女は、劇画ブームのいまの少女像の原点ともいえる。
 川端康成も筆をとっていたし、蕗谷虹児、高畠華宵、長澤節、岩田専太郎等そうそうたる画家たちが口絵や挿絵を描いていた。贅沢このうえない雑誌だった。
 さてひまわりの取材を何処にということになり、富士山の麓、北杜市のひまわり畑に対抗できるものはない、スタッフがとりあえずロケハンをかねて北杜市にいってきた。素晴らしいです、北海道まで行くことありません、という報告を受けた。ならば北杜へということになつてからがいけなかった。
 予定はすべて中央気象台に妨害された。集中豪雨、氾濫、落雷、台風、雨前線あらゆる天候不順に妨害されとうとう北杜市のひまわりは消えてしまった。
 それではというので群馬は中之条のひまわり畑へ参じたが、3日前まであったひまわりは雲散霧消、まんまと裏切られた。結局帰途、東御の雷電道の駅の近く、猫のひたいほどのひまわり畑で撮影し帰途についた。
 「向日葵は死のメッセージ」という山村美紗の短編があった。
 「向日葵の咲かない夏」という道尾秀介のミステリーもあった。
 「私はあなただけを見つめる」この花言葉には不幸の予感がある。


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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