古館伊知郎を見抜けなかった古賀茂明

by

in

古館伊知郎を見抜けなかった古賀茂明
 あちこちで質問される。とうにテレビ局は辞めているので、いまさら筆者に尋ねられてもと思うが、なんとなくテレビを見ている人にとっては、あの人は裏事情に通じているのだろうと誤解している。
 裏事情でもなんでもなく表事情だが、報道ステーションにおける古賀茂明と古館伊知郎のバトルはかなりの人々の関心を呼んだ。
 アイアム・ノット・アベとフィリップを出して叫んだ古賀茂明の最大の誤算は、テレビをジャーナリズムと認識していたことだろう。コメンテーターとして招かれて出演し、政治、社会の事象について発言している間に、彼はテレビを自由なジャーナリズムとカン違いしてしまった。
 朝日新聞政治部長を夫に持つ女性プロデューサーと、尊大な古館の間に挟まれて、何を発言してもいいというドツボにはまってしまったのだ。
 原子力村の実態追求も、プロデューサーと古館の全面的なバックアップのもとで、発言してきた。
 テレビ事業は政府のもつ許認可権によってのみ成立する事業であることを忘れていた。プロデューサーはその事業の雇われ人でしかない。テレビ局は気に入らないプロデューサーの配置転換など日常茶飯のことだ。
 その上、報ステの司会者としていっけん権力ありの呈をよそおっている古館も、元を正せばテレ朝のプロレス中継からでてきたアナウンサーにすぎない。彼には政治や権力に対する見識はない。目先の状況に右顧左眄して、媚びるタレント体質に優れた司会者なのだ。
 それ故彼が番組で叫んでいた原発問題もプロデューサーの影響を受けて発言していたご都合発言だつた。それよりも年間10億のギャラのほうが、古館にとってはなにより大事なことだ。。
 信念のない小心なタレントだったということを古賀茂明は見抜けず、ひとり番組を去ることとなった。


コメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です


プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


カテゴリー


月別アーカイブ