原 節子 鎌倉に死す

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原 節子 鎌倉に死す
 ある日、北鎌倉の小津安二郎監督のお宅に伺ったことがある。さほど長くない小さなトンネルを抜けると、ポツンと世を忍ぶ仙人の住まいのような家があった。ぐるりと山と林に囲まれ、その縁先にだけかよわい日差しがあたっていた。脚本執筆にすこし疲れたので、丁度よかったお茶にしましょう、といって縁側を望む座敷で、座布団を進められた。
 ややあって茶菓の盆をたずさえて運んできた人の横顔をみて息が止まりそうになった。
美しい横顔はまぎれもない原節子だった。盆をおき、茶菓をさしだした彼女は涼しそうな笑顔を送ってくれたが、若かった筆者はぎこちなく会釈を返すのが、精いっぱいだった。
 戦後、日本映画の全盛期を迎えて、語られたのは原節子という永遠の女優だった。
 端正な大人の顔で、きっぱりとした美人、儒教的な倫理観に西欧的な美貌でコーティングされた類い稀な女優だった。
 原節子ほどの清潔感とスケール観は、ほかの女優達にはまったくなかった。田中絹代も小暮実千代も高峰秀子も、まったくかなわなかった。
 黒沢明監督は戦後第一作の「わが青春に悔いなし」で原節子をヒロインし、成瀬己喜男は彼女に初めてのキスシーンを要求、多くの監督が彼女のファンだった。
 いっぽうでは、演技未熟とか大根ともいわれたが、小津安二郎は「そんなことをいう監督は自らの不明を露呈しているようなものだ」といって常に原節子を擁護した。
 「晩春」「麦秋」「東京物語」「東京暮色」「秋日和」「小早川家の秋」小津とともに紡いできた日本映画の名作は、原節子にとってかけがえのない一生だった。
 マッカーサーの愛人説や藤本真澄との恋も語られたが、1963年小津監督の死とともに俗をたち、映画界を引退、一切人前に姿を見せなくなった彼女は、鎌倉浄妙寺のちかく小津監督とともにした時間のなかに隠棲してしまった。
 日本の映画界、最初にして最後の大女優だった。             合掌


コメント

1件のフィードバック

  1. 原節子さん
    写真集を手放してしまったことが悔やまれました
    晩年のお姿を垣間見ることを期待していましたが
    あくまでスクープもされなかったところが
    また、すばらしいと思っておりました。
    肉眼で確認されたことをと他も羨ましく思います。
    わたくしはただのミーハーなのでいざとなったら身の置き所もなくどう振舞ったらよいのかも分からずパニックになって固まるだけで
    いつも後からあれこれ後悔してばかりいます。
    正しい接し方とか知りたい今日この頃です。
    少しでもお近づきになりたいという欲がそうさせているというわけなのですが(笑

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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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