助六花見之桟敷茶屋

by

in

助六花見之桟敷茶屋
 そろそろ桜の便りも聞こえてきたので、「助六」でも見ながら芝居見物の昔を味わいにいらっしゃいませんか。そんなお誘いが本吉原の名家の女性からきた。
 歌舞伎座西の5番の桟敷席に陣取り、花見茶屋の気分で「助六由縁江戸桜」に対した。すでに金箔入りの賀茂鶴をいただき、久田のお弁当でだいぶ胃袋は充たされている。
 襲名した右團次は、スーパー歌舞伎の頃からはすっかり表情もかわり、たんたんと市川家代々の芸であることと、河東節開曲300年にあたる目出度い年にあたることが語られ、柿色の裃とともに舞台は始まった。
 役者は給金をもらって舞台を務めるが、河東節の旦那衆はお金を使って舞台を務める、といった江戸大旦那の心意気が伝わる晴れやかな浄瑠璃の始まりだつた。
 茶屋まわりの金棒引きがふたり、花道から登場する。上手からも子供ふたりの金棒引きがでる。江戸っ子にとっては、この金棒引きの音こそが江戸下町の昔へ引き戻される魔法の音だ。花魁道中よりこの金棒引きにひかれるのは、幼い頃の思い出が掘り起こされるのだろうか。
 河東節の晴れやかでダイナミックな節回しと、金棒引きの金属的で雑味のある音、築地の河岸から届いた助六の紫の鉢巻、この三つを見届けることができたら、それで満足の「助六」でもある。
 禿,遣手、ご新造、若い者を従えて登場する三浦屋揚巻の道行を見ていて、突如記憶が57年前に飛んだ。
パリ・ムーランルージュに於けるラ・ルビユー・ジャポネーズ、幕開けの口上に続く第二幕も花魁道中だつた。
メディアの記者たちから、ここに登場する花魁とゲイシャガールの違いについて、多くの質問を浴びたが、的確に説明するのに苦労した。遊郭も花街も知らない外人に理解させるのに、いい言葉が見つからなかった。
 が女性の性をこれ程に賛美し、装飾し、多くの人々が協力する習俗は、世界中どこにもない。性の交感に神が介在し、祝祭性を重んじる文化は日本にしか存在しない貴重な習俗ではないか。ドイツの飾り窓の女達や、パリのプロスティテュートや、韓国の妓生たちに見せたら、みんな羨ましがるにちがいない。
 昭和32年4月1日、キリスト教婦人矯風会の圧力でに幕を閉じた遊郭文化、売春と一緒にした考え方を黙認したのは、日本人として正しかったのだろうか。これもグローバル思想の犠牲であるか。


コメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です


プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


カテゴリー


月別アーカイブ