山開きを待ちかねたように富士山は大賑わいのようだ。
タンクトップに入れ墨、短パンの異国の人々がつぎつぎと富士山にやって来る。
信仰の山どころか、原宿竹下通りを遊んでいる。
雨風の過酷な自然などイメージの外、観光登山の無責任な光景を見せつけられる。
筆者は戦後間もなく中学生のとき、ひとりぼっちの富士登山をはたした。
吉田口で金剛杖を求め、浅間神社に参ってからお山への第一歩を始めた。
いまでは五合目まで車でいけるスバル・ラインがあるが、当時はお山の途中まで自動車などという罰当たりなことは全く想像外だった。
三合目は「女人天上」、阿弥陀堂にお参りして女性は下山しなければならなかった。
富士山が何故「女人禁制」なのか、よくわからなかったが、多分山で身を清めるに女性がいてはまずいのだろう位の軽い考えで、降りていく脚絆姿の背中をみていた。天城越えの百恵ちゃんの後ろ姿、あれである。
「六根清浄、お山は晴れだ」「六根清浄、お山は晴れだ」つぶやきを繰り返しながら、ひたすら足を進めた。
その夜、河口湖の戦後はじめての湖上祭、花火の谺が山をゆすぶるような勢いで駆け上がって来る。はるか下の湖にはへばりついたようなオレンジ色の打上げ花火が開いては消え、開いては消えしていた。
「六根清浄、六根清浄、」金剛杖の焼き印も五つを数える頃から足元の緑は消え、礫ばかりの山と変わった。
七合目の山小屋では味噌汁にありついた。身のない汁ばかりの汁だったが、そろそろ疲れてきた中学生の身体には至福の汁だった。
キツイ! ツライ! 胸突き八丁を越えた頃は朝の4時を過ぎ、頂上がすぐそこに見えたが、疲労とご来光へのあせりで、山肌にへばりつくように登った記憶がある。
汗をぬぐいながら最後の「六根清浄」、ご来光とともに「万歳三唱」、人間が一皮むけたような気分となり、金剛杖いっぱいの焼き印がひとりぼつちの富士登山を忘れさせてくれた。
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プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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