二代目吾妻徳穂に期待する

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ル・モンド紙の記者から質問された。
「一昨年、日本からきた”アズマ・カブキ”を観ましたが、あれはカブキですか?」
第二次大戦後、まだ町は荒廃し文化も占領軍の支配下から抜け出せず、アメリカやヨーロッパは遠い国だった頃、日本の踊りを中心にしたバラェティ・ショウで始めてアメリカ、ヨーロッパを巡演したのが、先代の吾妻徳穂さんだった。
 カブキという名前を看板にしたため、ヨーロッパの有識者からハテナの質問をタビタビ受けた。
 ムーランに於ける我々のショウは、日本のトラディショナルな芸能を下敷きにしたレビュウだったが、アズマ・カブキについては所謂歌舞伎と日舞との関わりについて、タビタビの説明を要した。
 歌舞伎という言葉のほんらいの説明からしなければならなかった。歌う、舞う、歌舞くという日本語の説明を必要とした。ある意味、初代の吾妻徳穂さんは興行的才能に恵まれたイベンターでもあった。
 帰国後、日比谷公会堂でショウを公演していたとき、笛の推峰さん(後の名人名生)に連れられて、楽屋に現れたのが、徳穂さんの孫の少女だった。セーラー服をきた可愛い少女、…のちの吾妻徳彌さんであり、過日、二代目徳穂を襲名した林英津子さんだった。彼女は邦舞家としては珍しくプロポーションに恵まれた才媛だった。
 この年家元を息子中村壱太郎に譲り、みずからは三世宗家を継ぐという。英津子に生まれ、徳彌となり、人生の締めくくりは徳穂となる。名前の変わるごとに芸は大きくなつてきた。
 この先、二代目吾妻徳穂としての稔りが、どこに向かうか楽しみである。


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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