小学生時代に見た映画「支那の夜」は圧倒的なイメージを子供の脳裏に残した。
李香蘭と長谷川一夫の競演、メロドラマであり、音楽映画であり、夢のような中国の観光映画だった。
ニューヨークもパリも知らない小学生にとつて、蘇州という水の都は夢のまた夢のみやこ、長じて初の中国旅行では、まず蘇州を訪ねた。街中を縦横に走る水路の影を追い、園林を訪ね、獅子林を歩き、寒山拾得の寒山寺では漢詩の拓本を求めた。中国の歴史に思いをはせ、李香蘭の美声がいつも頭のなかに聞こえた。
彼女の甘美なソプラノがいつも耳のなかを巡っていた。
…君がみ胸に 抱かれて聞くは/夢の舟歌 鳥の唄/水の蘇州の 花散る春を/惜しむか 柳がすすりなく
花をうかべて 流れる水の/明日のゆくえは 知らねども/こよい映した ふたりの姿/消えてくれるな いつまでも
服部良一のメロディーはアジア中で人気を博し、李香蘭のイメージにダブったのだった。創唱した渡辺はま子、霧島昇を超えて、蘇州夜曲は李香蘭のものになった。
軍によつて造られた国策映画だったが、そうした背景を超えてファンタジックな中国の情景を訴えた。
中国では中国人と信じられ、日本では日本人であった彼女は戦争のはざまに咲いた大輪の花だった。
二つの祖国をもったわたしの人生はなんだったんだろう、後年述懐していた彼女はのちに政界に出たが、いつも中国人と偽って中国で活動した過去を悔いていたと伝えられる。
「李香蘭にして山口淑子だったひとりの女性」があの世に旅立った。 合掌
二つの祖国をもつた山口淑子
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プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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