中村紘子さんが亡くなった。国際的ないくつかのピアノ・コンクールの審査員を務め、この国のピアノ演奏を国際的なポジションに引き上げた功労者である。
が、彼女の演奏にいつもつきまとったのは、「テクニックはあるが物語はない」という評価だった。
彼女を悩ましていたのは「人より小さい手」ピアニストとして致命傷ともいえる身体的特徴だった。そのため彼女は猛烈なレッスンをつづけ、手のちいささを補うテクニックを身につけた。演奏時につきまとう劣等感が必要以上のテクニック偏重となり、解釈をこえていたともいえる。
彼女のデビュー前後、母であった中村曜子は、銀座の画材商月光荘社長として芸術関係のマドンナだった。
母の主宰するサロン・ド・クレールには、財界から政界、、美術、文化をを網羅した人々が集まっていた。
そのマドンナに天才少女がいるというので、話題となったのが中村紘子だった。
始めて彼女にあったのは、原宿のとある喫茶店だつた。
「ピアノの前に座ってしまえば、心は落ち着くのだけれど、ステージの袖からピアノまでの距離、わずかの時間がとてもつらい。どうしたらいいかしら。」という相談だつた。どう答えたか忘れてしまったが、演劇的な脱力法やら、目線の処理、注意の対象を観客から外したらいい、というようなことを言ったような気がしている。
当時NHK交響楽団初めてのワールド・ツアーに、ソリストに選ばれた彼女はピカピカに輝いていたし、可愛く魅力的な女性だった。母中村曜子の娘でありながら、妹となっていた母の血を多分に受け継ぎ、多感で情熱的な部分もあった。
ワールド・ツアーで指揮者の岩城宏之と外山雄三の部屋に夜な夜なかよい、師であった井口愛子から破門されたのも、彼女の青春にとって勲章だつたのかもしれない。
中村紘子さんを偲ぶ
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プロフィール

星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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