リアルな笠置シズ子を見せたかった

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 あの頃の日劇……日本劇場は元気だった。
 肉体の門に描かれた有楽町ガード下を過ぎると、突如巨大な日劇の看板が現れる。「灰田勝彦のハワイ航路」だったり、「池真理子のボタンとリボン」だったり、一週間ごとにレパートリーが変わり、日劇ダンシング・チームの名前が必ずゲスト歌手の後ろに書かれていた。
 焼け跡のレビュウは、国際劇場のSKD松竹歌劇団と、日本劇場の日劇ダンシング・チームしかなかった。宝塚歌劇は東京宝塚劇場が進駐軍に接収されアーニーパイル劇場として、アメリカ本土からくるショウ公演で日本人オフ・リミット、仕方なく両国錦糸町の江東劇場やら、有楽座、帝劇など定まらない宝塚歌劇上京公演だった。
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 「今週のショウは面白いから見にいらっしゃい」東宝のプロデューサーから電話がかかってきた。そこで遭遇したのが「笠置シズ子」である。
 直立不動の淡谷のり子や東海林太郎とは全く異なるキャラクターの大阪のオバチャン「笠置シズ子の東京ブギウギ」であった。元気いっぱい、舞台からはみ出さんばかりのパワー溢れる「笠置シズ子」が大口あけて歌っていた。走りながらスカートをつまんで足を上げるが、踊るというより暴れている感じ、新聞は「戦後初めての青春爆発!!!」と書きまくり、大入り満員の日劇だった。あの時の興奮を振り返ると、記憶にあるのは「高峰秀子の銀座カンカン娘」ぐらいか。
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 作曲の服部良一もアンコ型の親しめる音楽家、いまNHKでやっている草なぎ剛の二枚目風の表情とは全く違う人柄なのだ。
 笠置シズ子を演じている趣里もいただけない。あんな媚びた表情はまったくない真直ぐで素朴な魅力が笠置シズ子である。趣里のクニャクニャした手の動きや芸人くさい媚びた表情とは、まったく無縁で健康な明るい笠置であった。
 敗戦のストレスを一気に吹き飛ばしてくれたのが「笠置シズ子」だった。
 


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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