軽井沢アブソング・アウォードに関わって、10年たった。
避暑に訪れる別荘客や合宿の学生を相手に、地元でとれた野菜…キャベツやレタースを、あの信濃追分駅で売って積み立てたお金がこれだけ貯まりました。皆で相談したところ、このお金で音楽会をしたいので、ついては東京の歌手を紹介して欲しい。
そこから物語は始まった。東京のタレントにギャラを払って、苦労してチケットを売って、それでいいんですか。軽井沢のためになるとお考えですか。…うーん、ほかになにかありますか。 例えば、…
21世紀に入ってまもなくのこと、30人ばかりのチャーター・メンバーと議論を重ね、やうやくこぎつけたのが、2003年の秋、100万円の賞金を引っ提げてラブソングの公募コンテストを開始した。第一回は800曲に近い楽曲が北海道から四国、九州、沖縄から集まり、グランプリ作品はユニバーサルから発売されミュージック・ステーションにまで登場した。
当初は浅間山を望む大日向にある野外シアターを舞台に開催したので、天候のこと、浅間山噴火など、いつも自然に悩まされた。大賀ホールができてからは、アナログな響きすぎる音響に悩み、照明の不備に泣かされて今日まできた。
審査委員長を引き受けて下さった宮川泰先生は亡くなり、越路さんユーミンを育てた下河辺さんは引退されたが、音楽業界の良心と云われるスタッフに支えられ、地元軽井沢のベテラン議員さんと軽井澤を愛する次世代のみなさんの努力によって今日を迎えた。
「緑と風の軽井沢から21世紀のラブソングを」というキャッチは、次第に変化し「愛、してる?」(04年)「聴き、惚れる」(05年)「ななつの愛」(06年)「うれしくて泣く。あいたくて泣く。」(07年)この辺までは圧倒的にバラードが多く、ファイナル・コンサートの構成に苦労した。ラブソングときいただけで、バラードに反応する日本人の心情をいやというほど教えられもした。
09年に思い切って「愛オドル」を打ち出したところ、応募楽曲の傾向が一気にかわった。若返ったのだ。この流れは10年の「出会えた!」に引き継がれ、2011年の「バラードはいらない」で決定的になった。バラードをお断りし、さらに今年は「バラードはいらない。Up Beat」ここに至ってやうやく時代の感覚と同調した闊達な舞台ができた。応募者からも審査員からも「東京のコンテストに引けを取らない高水準だった」とか「面白かった」という好評をえた。
こうした音楽祭は数年つづけば上出来、3年で終わるというのが通例だが、この軽井沢ラブソング・アウォード、図らずも9年を終わり、来年は10周年を迎える。ボランティア・スタッフの次の世代を求めている。文化の絆は震災の絆の足元にも及ばない。
ラブソング・アウォードの10年
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プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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