ラスベガスのにほん「ア・ソウ・セクシー」

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 いつかはラスベガス、いつかはニューヨーク、というのは、戦後のこの国でショービジネスにかかわった人達の夢だった。
 戦後、12年やうやく東京から空襲の痕が癒えた頃、「あずま歌舞伎」という名の邦舞の集団がヨーロッパ巡演に旅立った。日本舞踊を軸にしたトラディショナルな踊りのチームだった。現吾妻流家元吾妻徳弥さんの祖母吾妻徳穂さんが結成したチームだった。
 そして初の長期公演をしたのがパリ・ムーランルージュにおける「ラ・ルビュー・ジャポネーズ」、帝国ホテルに制作オフィスを置き一年の準備をして、パリに乗り込んだ。口上から阿波踊りまで、日本の民謡をジャズやラテンにアレンジしたレビューで、毎晩二回一年間の公演を遂げた。
 その頃ラスベガスに、アラン・リーというプロデューサーがいた。この人は日本とアジアの芸能に造詣が深く、何とかして日本のショーをベガスに掛けたいと奔走した。
 雪村いずみと60人の踊り手で実現したのが、「ホリデイ・イン・ジャパン」日本側は東宝が受け口だった。次に「トウキョウ・ホリデイ」これはサハラホテルのラウンジ・ショウ、いまではベガスのホテルからラウンジは消えて、キノやスポーツ・カジノになってしまったが、あの頃のラウンジはシンプルなセットの中で、踊りの醍醐味を見せる素晴らしい舞台だつた。 ニューヨークにボブ・ホッシー、ベガスにロン・ルイスありと、ラウンジ・ショーには、最高の才能が集まっていた。
 アラン・リーの第三の仕事が「ア・ソウ・セクシー」、朱里みさをの振付で、元SKDのアンナ、カンナ等も出演した公演だった。以来日本のショーは姿を消し、「祭り」などという公演はあったが、ダンス・ショーではなく、アクロバティックな体操ショーだった。
 アラン・リーは、「トウキョウ・ホリデイ」のアイドル・ダンサー、トコちゃんと結婚し、晩年を幸せに送った。 今でも魅力的なトコは雪の軽井沢に現れ、「またね…」と言い残して帰って行った。


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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