ムンクと草間

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 ポンピドゥー・センターへいった。レンゾ・ピアノとリチャード・ロジャースによって設計されたこの国立美術文化センターはいつ訪れても時代の光彩をはなっている。本来はビルの内部に格納されて見えない筈の部分が、見事外部に露出して空調の青、水道の緑、電気の黄色、エレベーターの赤がイノチの詩を奏でている。アートとしての建築がそこに存在している。
 エドバルド・ムンクと草間弥生の展覧会があった。いつも死と向かい合っていたムンクと、死の誘惑をいく度となく超えてきた草間の作品が、ともにポンピドゥーの屋根のしたで展覧されていることに興奮した。 ムンクといえば、燃える空やうねる海をバックに身の置き所のない咆哮を上げている「叫び」が有名だが、この会場ではムンクの自制と孤独、つねに冷静に自己を見つめている彼の眼が痛いほどに伝わってきた。どん欲な女の魔性を包んだ黒い服の女の表の顔と、拡大された黒い影に見える破滅的な裏の欲望が、扇情的に訴えてくる。死に臨んだ恍惚の表情が受胎の一瞬として脳裏に赤い輪を生み出す。そこに描かれているのは愉悦とともにくる死の瞬間でもある。
 とめどなく増殖する水玉と男根のイメージに支配された草間弥生の世界もまた、精神の病と闘い続ける死よりも強い病人の宿命にみちていた。ミニマル音楽やミニマル・アートといった歴史の要請と一致したことが、彼女の芸術をここまで拡大させたのだろう。草間の小説「マンハッタン自殺未遂常習犯」そのものが会場内を彷徨していた。
 外に出た。ストラビンスキーの噴水の赤い大きなクチビルから、活きよい余ったように吹き出す水しぶきに今見てきたムンクの背中、草間の満身創痍のすがたが浮かんだ。


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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