マダム貞奴と桃介の殉愛

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 木曽街道を南下する。
 山と山が迫って、このあたり日の出はおそく日没ははやく、昼間が短いだろうと五木の山を見ていると、突然典雅なたたずまいの橋が現れる。
 木曽川は南木曽のあたり、街道の走るこちらと、対岸の読書発電所を結んで大正の風をはらんだ吊り橋、その名を「桃介橋」という。読書という地名にもはっとさせられるが、桃介橋もまた福澤桃介という大正の電力王の名を冠した造形美に優れた吊り橋だ。
 この吊橋を渡るたびに、想いは「マダム貞奴」に飛ぶ。
 江戸の花街、葭町の置屋浜田屋に育った貞奴は12歳でお酌となり、15歳にして時の総理伊藤博文に囲われた。巷では、川上音二郎の「オッペケペ節」が流行っていた。中村座で音二郎の壮士芝居をひとめ見た貞奴は、名妓の座を棄てて、音二郎のもとに走る。芝居の失敗で首が回らず、築地からボートでアメリカ脱出を試みるも、淡路島に漂着して挫折したこともある。
 アメリカ興行では、女形の芝居にクレームがつき、やむをえず貞奴が舞台にたった。総理の愛人、芸者ガールへの興味が評判を呼んで成功裡にニューヨークまでたどり着いた。
 翌年、ヨーロツパに呼ばれた一座のパリ興行は、折からのパリ万博のなかでも評判を呼び、ピカソが貞奴を描いたり、ロダンは是非彫刻にしたいとプロポーズして断られたり、ヤッコドレスがパリ社交界で流行ったり、エリゼー宮の園遊会では娘道成寺を舞って話題となった。
 音二郎の死後、貞奴の再婚の相手こそ、福澤桃介だつた。桃介とは葭町の芸妓時代から何十年のあいだ秘かに情を通じていたといわれている。


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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