中村勘三郎が他界した。57才はいかにも若過ぎる。
歌舞伎役者のなかで彼ほどマスコミ好きはいなかった。テレビのためなら、すべてお見せしますといった当世役者で、いちはやく芸能プロに身を置いて無理なスケジュールを日常にしたため、命を縮めたのかもしれない。身長が足りず大歌舞伎の立役としてはどうしても中途半端だったので、法界坊やめぐみの喧嘩のような下世話な喜劇が向いていた。
役者としてのカロリーは高く、そこいら中で〇〇歌舞伎をやっていた。「松本はぼくの故郷です」といって松本歌舞伎を立ち上げ、「金沢に帰ってきました」といって金沢歌舞伎を称し、渋谷ではコクーン歌舞伎を演じ、サカスでは「やっぱり赤坂歌舞伎」といっていた。平成中村座という掛小屋芝居を浅草で始めたが、客のひざに座って演じるようなコビた芝居で、入れ物だけが珍しい新しい歌舞伎には程遠い舞台だった。
玉三郎との公演では、松羽目に美保の松原を書き込んでいた。松羽目という変化自在なユニークな抽象表現を、知ってか知らずか意味無く壊すところもあった。
伝統歌舞伎に異議をとなえるのは結構だが、歌舞伎にしかない貴重な表現まで壊すのは如何なものか。
うしろのホリゾントを飛ばしたら、ニーヨークが見えたと、演出の新しさを強調していたが、日本の古い歌舞伎舞台にはそこいらじゅうに見かける劇場機構で珍しくもない。
多くの活動で歌舞伎を知らしめた功労は多とするが、無知なマスコミを相手に仕掛けた勘三郎の活動は、一過性の観客こそ多く生み出したが、本当に演劇としての歌舞伎を愛する観客からは、あまり支持をえていなかった。
勘三郎亡き後彼の芸風を次ぐものはと考えてみたが、同世代の三津五郎はすこし線が弱く、翫雀は上方風で、あのカロリーを次げる役者層の欠落に気がついた。
マスコミ好きの歌舞伎役者
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プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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