大学受験の一年位前のこと。君は新聞は何を読んでいるか、の質問が多くなった。 新聞を読むなら朝日、東大の試験は朝日から出題されるから、のみならず国家公務員の検定も朝日から出題されると、言われた。
雑誌も中央公論や世界を愛読することが、インテリの身分証明書のようなもの、すこし落して文芸春秋どまりだった。
中間文化論が登場した。エリート層の高級文化と大衆の低俗文化のあいだに、中間文化があるというのだ、これこそがインテリの大衆化による新しい文化の様相だというのだ。
朝日というクォリティ・ペーパーが発行部数第一位に躍り出た。第一位ということは大衆紙になったということだが、その大衆紙が高級紙であるはずがないのに、どうしたわけか朝日はクォリティ・ペーパーの地位にこだわり、中間文化のリーダーの位置にいた。文化の民主化は新聞の大衆化をもたらしていた。
フランスのル・モンド紙のごとく、少ない発行部数でクオリティを維持するという発想はなかった。
部数は売りたい。質は維持したいというのは無いものねだりに通じる。読売との販売競争に敗れかかった頃から、紙面から目立って批評記事が少なくなってきた。映画も舞台も紹介記事ばかりになってきた。あるとき学芸記者に尋ねたことがあった。ニューヨーク・タイムスの如く何故鋭く批評しないのか、いやうっかり批評しようものなら、悪い作品なら止めようと紙面から削られてしまう、紙面はなによりも読者に喜ばれるものでなくては、というのが近頃の朝日と言われた。
政治面も統計第一の調査報道ばかり、記者から急速に思考力が失われていった。
岩波文化人も崩れかかっていた。芥川賞、直木賞より本屋大賞というとんでもない時代になっていた。
朝日の新聞人はみなテレビへの天下り志向、テレビという腐りかかったメディアに寄生し、ペンよりも視聴率、正義より売上高、というウォール街のポピュリズムに堕してしまった。
朝日も岩波も落日の彼方へいってしまった。
ベンよりも視聴率・朝日の凋落
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プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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